内部化されたトランスフォビアを描くファンタジック・ホラー映画『テレビの中に入りたい』

テレビの中に入りたい (監督:ジェーン・シェーンブルン 2024年アメリカ映画)

暗い部屋に浮かぶテレビの青白い光が、静かな夜を切り裂く。心の奥底で蠢く言葉にできない渇望と恐怖が、ゆっくりと身体を蝕んでいく。現実と幻想の境界が溶け、抑圧された自己が叫びを上げる——。『テレビの中に入りたい』は、そんな感情の渦に観る者を突き落とす映画だ。魂を揺さぶり、重い余韻を残すこの物語は、単なるミステリーの枠には収まらない。

1996年、郊外の町で孤独に暮らす少年オーウェンは、深夜番組『ピンク・オペーク』に魅了される。それは超自然的な力を持つ二人の少女、イザベルとタラが「月の怪物」と戦うファンタジー番組だった。年上の少女マディと番組を共有するうち、オーウェンの中で現実とフィクションの境界は曖昧になり、自身のアイデンティティに疑問を抱き始める。しかし、月日は流れ、大人になった彼の人生は空虚に満ちていた。抑圧された秘密は、次第に彼の精神を崩壊させてゆく。

主演のジャスティス・スミスは、本作で繊細な内面を見事に体現。共演のブリジット・ランディ=ペインも、クィアな役柄を得意とする彼(彼女)らしい存在感を放っている。監督を務めたジェーン・シェーンブルンは、トランス・ノンバイナリーのフィルムメーカーだ。本作は、監督自身のトランスとしての実体験を基にした、極めてパーソナルな「自己発見」の物語でもある。

当初、私はこの映画を「大人になりきれない少年少女たちの疎外感を描いた青春ホラー」として受け取っていた。テレビ番組への没入は現実逃避の手段であり、90年代のノスタルジーを纏ったエモーショナルな物語に見えたのだ。しかし、物語が進むにつれ、本作が「トランスジェンダーが自身のアイデンティティを抑圧する苦しみ」、即ち「内部化されたトランスフォビア」を描いた痛烈な寓話であることに気づかされる。

オーウェン性的指向が曖昧にされ、女装のフラッシュバックが挿入される点、そして親密な筈の少女マディとの恋愛感情が描写されないこと。これらが描く「違和感」は、ジェンダー認識の齟齬そのものを象徴している。オーウェンの父が放つ「女の子が観る番組だ」という呪いの言葉、そして大人になり、結婚という名の幸福を演じながらも空虚に沈むオーウェンの姿。それは「真実の自己」を否定し続けた人生の末路を、残酷なまでに描き出している。

オーウェンが目を背け続けてきたもの、それは自らがトランスジェンダーであるということだ。そして目を背け続けることによって生じた自己疎外の悲劇がこの物語なのだ。劇中の番組タイトル『The Pink Opaque(不透明なピンク)』は、トランスジェンダーの内面的な自己を象徴しているのだろう。「Pink」はトランス・フラッグにも含まれる精神性を、「Opaque」は社会から認識されず、本人すらも明瞭に掴めない不透明な状態を示唆している。

監督のシェーンブルンは、インタビューで本作を「トランスであることに気づく瞬間を避け続ける心理的ホラー」と位置づけている。オーウェンはTV番組キャラクターに自分を重ねながらも「変容」を拒み、対照的にマディは鏡のように彼の抑圧を浮き彫りにする。この抽象的な表現こそが、多くの批評家から「トランス体験の最も深いビジョン」と称賛される所以だ。

本作は、クィアな人々が抱く「生埋め(buried alive)」の恐怖を視覚化したものだ。もしトランスの文脈を知らずに観れば、単なる「奇妙な映画」で終わるかもしれない。しかし、散りばめられた寓意を理解したとき、この映画は切なく、やるせなく、どこまでもエモーショナルな輝きを放ち始める。包み込まれるような深い悲しみと共に訪れるラストシーンは、唯一無二の映画体験となるはずだ。


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