ピアノチューナー・オブ・アースクエイク (監督:ブラザーズ・クエイ(ティモシー・クエイ、スティーヴン・クエイ)2005年イギリス・ドイツ・フランス映画)

美しい歌姫マルヴィーナの声に魅せられた天才科学者ドロスは、彼女を誘拐して、自らが発明した奇妙な演奏機械人形のコレクションに加え、それによって破壊的なオペラ演奏を行おうと企てていた。機械人形の調整のために呼ばれたピアノ調律師フェリスベルトは、その恐ろしい計画に気づき、マルヴィーナを助けようと試みる…。
『ストリート・オブ・クロコダイル』('86)が日本のアート・アニメーション・ブームの先駆けとなる大ヒット上映を記録して20年。双子の異才クリエーター、人形アニメの巨匠ブラザーズ・クエイが、彼らの大ファンと公言しているテリー・ギリアムを製作総指揮に迎え完成させたのが本作。幻想文学の巨匠ボルヘスが“完璧な小説”と呼んだ、カサーレスの「モレルの発明」、そしてルーセルの「ロクス・ソルス」を原案にしている。クエイ兄弟の真骨頂である独自のアニメーションと実写が融合し、絵画のような美しい狂気がスクリーンに咲き乱れる。(作品資料より)

アート・アニメーション界の鬼才、クエイ兄弟が監督した実写映画。美しいが古ぼけたようにどんよりぼんやりとした映像と奇妙で記号的な登場人物、耽美で怪奇でゴシックで説明の殆ど無いシュールなストーリーは実に"アートな映画"しまくっているが、うっかり娯楽映画のメリハリあるプロットや映像表現に慣れた目で観てしまうと、どこまでもとりとめが無く意味不明な物語展開に次第に睡魔に襲われてゆくという危険な映画でもある。

クエイ兄弟といえば真っ先に名前が出る作品は『ストリ−ト・オブ・クロコダイル』だが、「なんだか物凄くアートしているらしい」という噂を聞きつけ、その気になって劇場に足を運んだら、最初こそむせかえるようなおどろおどろしさに度肝を抜かれたけれども、物語らしい物語の無い映像の連続に見事爆睡、オレにはアート映画なんぞ向いちゃおらん!と結局は開き直る羽目になった。しかしなんだか気になることは気になって、その後高価なビデオテープを購入、根性入れて見直した覚えがあったりする。

この感じって何かと似ているな、と思って思い出したのがデヴィッド・リンチの処女作『イレイザーヘッド』を観た時だ。この映画も怪奇で思わせぶりで説明皆無のアートな映画で、最初劇場で観た時はその訳の判らない物語に「難解だから有り難がるってぇのは田舎もんとスノッブによくある思考形態だよな」などと憤慨したものである。しかし、そうはいいつつもどうにも気になってこっそりと再見、するとリンチが何を描きたかったのがなんとなく伝わってきて、これはこれでよく出来た映画なんじゃないのか?と思い直したという経験がある。

クエイ兄弟デヴィッド・リンチでは描くものの方向性は違うし、クエイ兄弟の描くものはリンチよりもさらに観る客を選ぶとは思う。そもそもクエイ兄弟は良くも悪くもマス・マーケットにはあまり興味を持っていないように見えるし、リンチほどの扇情的なセンスはほぼ無いに等しい。ストップ・モーション・アニメの精緻だが顕微鏡的にちまちました小世界にすっかり魅せられ囚われ、そのミニマルな世界で完結することのみを至上の喜びとしているようにさえ思える。

だから実写で撮られたこの『ピアノチューナー・オブ・アースクエイク』も、実写なのにも関わらず舞台は何かミニチュアセットのように見えてしまうし、そのせいで映像には常に息苦しさが付きまとう。しかしこの時代性などはなから無視したような鬱蒼とし古色蒼然とした画作りは、やはり媚することを嫌う頑固な職人気質によるものなのだろう。判り難くはあるが決して難解といった内容ではなく、「お気に入りのものを自動機械にして永遠にコレクションしたい」という科学者ドロスの淫靡な欲望の猟奇振りは、江戸川乱歩あたりの通俗さと通じるものがあるかもしれない。ただ、この映画ではできるならもうちょっと彼らの職人技たるストップ・モーション・アニメを多めにフィーチャーしてもらいたかった。

■Piano Tuner of Earth Quakes Trailer


クエイ兄弟の代名詞である『ストリート・オブ・クロコダイル』は現在パッケージ商品として入手することは困難だが(海外のアマゾンなどで取り寄せられる)、YouTubeで観ることが可能である。しかし暗すぎて緻密なディテールがまるで掴めないところは致命的だな。

■Street of Crocodiles part 1

■Street of Crocodiles part 2

■『ストリート・オブ・クロコダイル』のショート・バージョン。こちらのほうが遥かに判りやすいか。