文明交錯 / ローラン・ビネ (著), 橘 明美 (翻訳)
インカ帝国がスペインにあっけなく征服されてしまったのは、彼らが鉄、銃、馬、そして病原菌に対する免疫をもっていなかったから……と言われている。しかし、もしも、インカの人々がそれらをもっていたとしたら? そしてスペインがインカ帝国を、ではなく、インカ帝国がスペインを征服したのだとしたら、世界はどう変わっていただろうか? 『HHhH──プラハ、1942年』と『言語の七番目の機能』で世界の読書人を驚倒させた著者が挑んだ、大胆かつ魅力溢れる歴史改変小説。
『HHhH──プラハ、1942年』、『言語の七番目の機能』で知られるフランス人作家ローラン・ビネによる『文明交錯』は、「インカ帝国がスペインを征服した架空の世界」を描く歴史改変小説である。史実におけるインカ帝国は1533年、スペインの派遣したピサロによって征服され滅亡したが、この小説ではその真逆の歴史を描くのだ。スペインを征服したインカ帝国はさらに周辺ヨーロッパ諸国を侵略、遂にはその殆どを掌握し、「太陽の帝国インカ=ヨーロッパ」を築き上げるのだ。
アメリカの生理学・生物歴史学者ジャレド・ダイアモンドはノンフィクション書籍『銃・病原菌・鉄』において「インカ帝国がスペインにあっけなく征服されてしまったのは、彼らが鉄、銃、馬、そして病原菌に対する免疫をもっていなかったから」という説を展開し、書籍はピューリッツアー賞を受賞した。これはユーラシア文明が何故生き残り、他の文明を征服してきたかの説明を試みたものであり、覇権国家はその知性や遺伝的優位性により覇権国家となったのではなく技術的優位性その他によって成し得たのだとする説だった。
一方、この『文明交錯』ではインカ帝国が「銃・病原菌・鉄」を既に持っているという設定を持ち込み、それを行使することでヨーロッパ諸国侵略を可能にする。これによりジャレド・ダイアモンドの説を裏付けるような形でスペイン、そしてヨーロッパはインカ帝国に席巻されてゆくのだ。この「思考のウルトラC」の如き跳躍ぶりがこの小説の面白さであり、「歴史のif」を描く部分で非常に知的興奮を呼び覚ます作品となっている。
物語は4部構成となっており、まず第1部では10世紀ごろアメリカ大陸に漂着したバイキングがこの地に病原菌を持ち込み、原住民らは罹患しながらも免疫を獲得してゆく様が描かれる。第2部では15世紀、アメリカ大陸を”発見”したコロンブス一行が原住民らの逆鱗に触れ、なぶり殺しにされて全滅する様が描かれる。このコロンブス虐殺の辺りから歴史逆転の痛快さに変な笑いが止まらなかったことを白状しておこう。
そして実質的な本編となる第3部では15世紀中期にインカ皇帝アタワルパがたった183人の兵を率いてヨーロッパに上陸、リスボン大地震により疲弊したポルトガルを掌握してスペインへと進軍してゆく様子が描かれてゆく。このインカ皇帝アタワルパは史実においてはピサロに処刑されたインカ帝国最後の皇帝だった。最終章第4部で描かれる世界はそのあまりの改変に、もはや夢幻の如き光景だった。そして、この夢幻の光景は、もしかしたら存在したかもしれないもう一つの世界だとも言えるのだ。
なにより膨大な資料と綿密な考証により物語は進行し、歴史の細かな史実を一つ一つ掘り起こしてはそれを逐次逆転させてゆくという徹底ぶり、「史実とは逆へ、逆へ」と邁進させてゆく力技には息を飲まされる。そんなのアリかよ!?と思わせる部分もあるけれども(そしてここでまた笑ってしまう)、事実は小説より奇なりというなら、有り得ないことが起こってしまうのもまた現実なのだ。
これらはヨーロッパ史を確実に知っていればもっと楽しめたかもしれないが、オレのように歴史に不勉強な輩が読んだとしてもその面白さは十二分に伝わってくる。その敷居の低さは単純に歴史改変SF小説として読める面白さであり痛快さだ。物語ではインカ帝国の後にヨーロッパに入ったマヤ帝国がパリに神殿を築き、神に心臓を捧げる生贄の儀式を執り行う描写があって、読んでいて気が遠くなった!
「銃・病原菌・鉄」を持っていたことでヨーロッパを掌握してしまうインカ帝国を描いた物語だが、この「銃・病原菌・鉄」とは別に、当時のヨーロッパを支配するキリスト教信仰が人々を弾圧し貧富の差と差別と腐敗を生み出していたことも看過されている。こういった社会の歪みを生み出すキリスト教に対しインカ帝国の太陽神崇拝がカウンターパンチとなり、人民に正義と平等をもたらしてゆくという展開もまた皮肉が効いていた。こういった、歴史改変を描くことで文明批評となっている部分に於いても優れた作品だった。