今更ながらにブラッドベリの『火星年代記』を読んだらピューリタニズムの話だったというのが分かってびっくりした

ブラッドベリ火星年代記』を長きに渡る積読からやっと解き放つ

レイ・ブラッドベリは、SF作家としても幻想文学作家としても相当に名の通った作家であり、オレも好きな作家ではある。しかし実際のところオレにとってブラッドベリは、初期の短編集『10月はたそがれの国』のみを熱狂的に支持しているという作家で、それ以外の有名作は殆ど読んでいなかったりするのだ。ブラッドベリの代名詞でもあるこの『火星年代記』も実は読んでいなくて、実は読み始めてもピンと来なかった為に今までずっと放置していたのだ。そんなブラッドベリの『火星年代記』を、今回やっと重い腰を上げ、10代の頃に積読して以来30年以上ぶりに手にしてみたのだ。するとこれが、最初に持っていた印象と違う作品だったのでびっくりした。
火星年代記』は地球人が火星に探検に出掛け、そこで火星人との衝突がありながら、当の火星人はある理由から滅亡し、それにより地球人による火星植民が可能になるが、しかしかつての火星人の"スピリット"は依然として火星を彷徨っていた…という物語だ。一見火星を舞台にしたSF作品のように見えながらも実はSFではなくファンタジイであり、そして何故ファンタジイかというと現実的な世界(地球/火星)を舞台にしたものというよりはこれらの舞台を借りた「寓話」である、というのが本作なのだ。

■『火星年代記』の持つアレゴリー

火星人滅亡の原因が「水疱瘡」であるというのは他愛の無い細菌で死滅した『宇宙戦争』の火星人を真似たものではない。インカ帝国の滅亡はスペイン軍の武力のせいではなく彼らの持ち込んだ天然痘が主な原因であったらしいし、ヨーロッパ大陸からの移住者が持ち込んだ病原菌により南北アメリカの原住民はコロンブスの新大陸発見以前になんとその95%が葬り去られてしまったのだという(『銃・病原菌・鉄』ジャレド・ダイアモンド参照)。つまりこの作品はそういった寓意を背後に持つ作品だということだ。
その"寓意"の本質にあるのは「旧世界から新天地へ」というアメリカ成立の歴史であり、いってみればこれはピューリタニズムの話なのだな、と思えた。アメリカ成立の陰にはネイティブ・アメリカンの虐殺・放逐があったが、これら闇に葬られたネイティブ・アメリカンの"スピリット"を決して忘れ去ってはいけない、そしてその"スピリット"は今でもアメリカの大地に根を張っているのだ、こういった想いを「絶滅した火星人」に仮託したのがこの物語なのではないのか。これはある意味作者ブラッドベリの信仰者としての【良心】だったのではないか。
これが端的に表れた作品が「新世界での神の顕現の是非」を問う、いわばキリスト教論議ともとれる『火の玉』であり、ここでは、消え去った民族である火星人/旧民族に限りない敬愛を注ぐ様が描かれているではないか。そして火星に植民した地球人は次第に「火星人」となってゆくさまが描かれるが、それを「失われた民族がもう一度再生する」ととるならば、これこそはかつての旧世界人への【鎮魂】に他ならないのではないのか。
この『火星年代記』はただ宇宙ファンタジーとして読んでも全く構わないが、こういった寓意を読み解く時に、「アメリカ人の心の底に棲む何か」がゆらりと立ち現れてきて別の観点から興味深く読み進めることのできた物語だった。・・・とまあそんなことを読みながら思ったのだが、読み終えてからあれこれの書評に当たってみると、この作品の持つこういった解釈の仕方は随分前から一般的なものだったようだ。なーんだ…。

■《新版》の『火星年代記

なお自分が読んだ『火星年代記』は2010年に早川書房から刊行された《新版》の『火星年代記』である。この《新版》は1950年出版されたオリジナル《旧版》を、1997年に改訂版として出版したものの翻訳なのだが、実はこの新・旧版で内容が違うのだ。まず作者による序文が付け加えられ、さらに作品の舞台となる年数を31年繰り下げているのだ。つまり、旧版では舞台が「1999年」であったものが、新版では「2030年」になっている、といった具合だ。そして幾つかの作品が差し替えられている。なんと、旧版をずっと積読していたおかげで、新版で初めて『火星年代記』に接した、という奇妙な体験をした、というわけなのである。

火星年代記 (ハヤカワ文庫SF)

火星年代記 (ハヤカワ文庫SF)