■闇の奥 / ジョゼフ・コンラッド
船乗りマーロウはかつて、象牙交易で絶大な権力を握る人物クルツを救出するため、アフリカの奥地へ河を遡る旅に出た。募るクルツへの興味、森に潜む黒人たちとの遭遇、底知れぬ力を秘め沈黙する密林。ついに対面したクルツの最期の言葉と、そこでマーロウが発見した真実とは。
オレが戦争映画で最も好きな作品は『地獄の黙示録』である。完成度云々というより、あのグダグダな混乱ぶりも含めて好きなのだ。そして『地獄の黙示録』といえば原案となった小説『闇の奥』だ。しかし『地獄の黙示録』のことを語る時必ず『闇の奥』を引き合いに出していたにもかかわらず、オレはこの小説を読んだ事がなかった。これは「ヒッチコック的手法」とか言いつつヒッチコック作品を一本も観ていないような不誠実さである。で、これじゃあイカンと思い、やっと今回読んでみることにしたわけだ。
『闇の奥』は英国人作家ジョゼフ・コンラッドが1899年に発表した小説である。物語は船乗りである主人公マーロウが商用船でアフリカのコンゴ川を遡り、その奥地で原住民たちに権勢を振るうというクルツという男を見つけ出そうとする物語となる。ランダム・ハウス、モダン・ライブラリーが選んだ「英語で書かれた20世紀の小説ベスト100」に選出され、村上春樹の『羊を巡る冒険』『IQ84』にも影響を与えたとされる文学作品だ。
でまあ、読んでみたわけなのだが、最初暗鬱かつ晦渋そうなイメージの作品だったにも関わらず、読んでみるとスルスルと結構呆気ないくらいに読み終えた。作品の長さ自体が中編程度のボリュームだったのと、光文社の新訳で読んだせいもあったかもしれないが、とにかく最初のイメージとは逆に軽快なぐらいの語り口調の作品だった。内容はなにしろアフリカ大陸の「闇の奥」へと分け入ってゆく物語なのだが、そこで鬱蒼としたジャングルやら得体の知れない原住民と出会いつつも、主人公マーロウが一貫して内省に至らず「19世紀的なタフな船乗り」としてそれらをやり過ごしてゆくのだ。
物語の構成からこの作品が欧州による当時の帝国主義と植民地主義、黒人人種差別の様子を炙り出したものだと捉えられがちだが、むしろオレにはもともと船乗りであった作者が描いた暗黒大陸冒険譚にすぎないように思えた。もちろんこれは「あえて薄っぺらく読むならば」という但し書きが付くが、それではなぜこの物語が文学的に重要な作品と呼ばれるのか、ということを考えるならば、それは帝国主義やら差別やらの問題提起ではなく、「訳の分からない土地に行って容易くアイデンティティ・クライシスを起こしてしまう欧州人の心理的脆弱さ」を暴いてしまったからではないかと思えるのだ。
映画『地獄の黙示録』において謎なのは、クライマックス、瀕死となったカーツ大佐が呟く「恐怖だ、恐怖だ」という言葉の意味だ。ジャングルもベトナム戦争もそりゃあ恐怖に違いないが、ベトナムの奥地で専制的な王国まで築いた男が、いまわの際に今更のように「こわいようこわいよう」などと泣き言を言うだろうか。そして原作であるこの『闇の奥』でも、カーツ大佐の如く原住民たちに祀り上げられたクルツという白人が、死に瀕しながらやはり「怖ろしい!怖ろしい!」と呟いて息絶える。原作でもここが唐突であり、この「恐怖の本質」とは何だったのか、という解釈の多様さが『闇の奥』を問題作たらしめているように思う。
この「恐怖の本質」が何かということは、今作に登場する欧州人たちが基本的にキリスト教的伝統の中にある存在だと考えることで導き出すことができる。キリスト教的伝統の中にある欧州人にとって、原生自然(wilderness)とは楽園の対極である呪われた大地であり、それに対するキリスト教的態度は「征服」「支配」なのだ。自然とはそもそもが「野蛮」であり「徹底した不法の状態(ヘーゲル『歴史哲学講義』)」であり、それは人間によって支配されるべき対象なのだ。同様に黒人とは「野蛮」の状態にあるがゆえにそれも支配されるべき対象となるのだ。
すなわち『闇の奥』における「恐怖の本質」とは、「征服も支配もできない”原生自然”に飲み込まれてしまうことへのキリスト教徒的な恐怖」と、「そこに飲み込まれ”原住民=黒人”と同化することへのキリスト教徒的な恐怖」だったのではないか。すなわちそれはキリスト教徒的なアイデンティティを喪失・譲渡してしまうことの恐怖なのではないのか。硬直的なアイデンティティは、それが硬直的であるからこそ逆に脆いものだ。『闇の奥』、そして『地獄の黙示録』における「恐怖の本質」とは、「教化され文明化している筈の自己(欧米白人)が異文化の中であっけなく自己崩壊すること」の恐怖だったのではないだろうか。