『地獄の黙示録 ファイナル・カット』を観た。

地獄の黙示録 ファイナル・カット (監督:フランシス・フォード・コッポラ 2019年アメリカ映画)

f:id:globalhead:20200301115816j:plain

■オレと『地獄の黙示録

泥沼のベトナム戦争を描く1979年公開のフランシス・フォード・コッポラ監督作『地獄の黙示録』が【ファイナル・カット】と銘打って再公開されるというので、バイ菌大パニックにより地獄の黙示録的様相を呈している街中(恐怖だ!地獄の恐怖だ!)へと勇んで出かけたオレであった。

この『地獄の黙示録 ファイナル・カット』、製作40周年を記念し、コッポラ監督自らが1979年版(147分)より36分長く2001年に発表された『特別完全版』(196分)より13分短いヴァージョン(183分)として再編集されたものだ。もちろんデジタル修復済み、さらに今回はIMAXでの公開であり、ランニングタイム云々よりも「あの『地獄の黙示録』がIMAXで観られる!」という興奮がなにより強かった。

というのも、オレが「戦争映画」というジャンルで最も好きな作品がこの『地獄の黙示録』だからだ。以前ブログ『男の魂に火をつけろ!』主催による「戦争映画ベストテン」に参加した時、オレがナンバーワンに推したのもこの映画だった。しかし、個人的な「ナンバーワン戦争映画」であり、相応に愛着のある映画であるにもかかわらず、それでもオレはこの映画が「壮大な失敗作」である、と思っている。「失敗作」という言い方が強すぎるなら、「どこか未完成な作品」であると言い換えてもいい。監督自身が全体をコントロールしきれていないように感じるし、テーマが前半と後半でちぐはぐになってしまっていると思えるのだ。特に後半のグダグダ感は賛否両論の元となっただろう。しかし、この「強烈なポテンシャルを帯びているにも拘らず、結果的に妙にイビツな完成度」であることの、その「イビツ」である部分に、なぜか惹かれてしまって堪らないのだ。このあたりの個人的な感想は以前【特別完全版】のブルーレイを観たときにブログで書いた。

■そして『ファイナル・カット』

そしてその感想は今回観た『ファイナル・カット』でもさして変わらない。今『地獄の黙示録』を観るならやはり『特別完全版』を観るべきだと思うが、劇場上映を考えるなら興行的にも『ファイナル・カット』の上映時間で妥当であるかもしれない。どこがどう違うのか全部は分からなかったが、『ファイナル・カット』では『特別完全版』にあった「プレイメイトのその後」が収録されていなかった。そしてラストの「空爆破壊」はこの『ファイナル・カット』でも削除されていた。これはあの「空爆破壊」が、実は「セット破壊の様子を収めた映像」であり、それを作品内で使用するのはもともとコッポラの意図したことではなかったからなのだという。

それはクライマックス、カーツを「排除」したウィラードが、遺跡の出口で武器を捨て、それを見た原住民たちも武器を捨てる、というシーンが、「戦争の終りであり新しい時代の始まり」を意図したものであり、そこに「空爆破壊」による大虐殺を持ち出してはテーマと真逆になるからということであったのらしい。

それよりもやはり盛り上がったのは、IMAXの映像と音響で観る、あの「ワルキューレの騎行」のシーンだな!ヘリのプロペラ音が映画館内をグルグルと回り、そこにワーグナーのあの曲が高らかに鳴り響き、そして爆撃と爆炎に塗れた大量破壊の有様が画面いっぱいに繰り広げられる時のあの恍惚といったら!もう戦争の恐怖とか狂気とか全く無視してただただ大量破壊大量殺戮シーンの愉悦に酔い痴れていたよオレは!『プライベート・ライアン』だってオープニングの地獄のオマハ・ビーチ・シーンだけが最高であとの物語は退屈だったもんなあ。いやあオレ、鬼畜だなあ。

■西洋的なるものと東洋的なるものの拮抗

結局『地獄の黙示録』のチグハグさというのは、当初ジョン・ミリアスが書いた戦争スペクタクル風のシナリオを、監督コッポラがジョセフ・コンラッドの小説『闇の奥』と睨めっこしまくったあげく撮影中どんどん書き直していったからで、即ち即物的なスペクタクルで始まった筈のものが、いつの間にか文学的内省にすり替えられてしまったことの齟齬、ということではないかな。今で言うならスーパーヒーロー映画観に入ってスカッとしようと思ってたら途中からラース・フォン・トリアー風の鬱映画展開になって目が点になってしまう、みたいなもんだろうか(それはそれで観てみたい気も)。

ただこのチグハグささえ、テイストの違うものをそれぞれに味わう覚悟で観るなら、ではコッポラ自身は何を描きたかったんだろうか、という興味に変わってきて、エピソードが羅列されるだけのあのグダグダした後半の、そのグダグダすらも次第に心地よくなってくる。東洋の密林の中でグダグダになってしまう欧米白人、という意味においても。

前半において蠱惑的なまでに戦争の官能を描いたこの物語は、後半において東洋なるもの/あるいは排除できない鬱蒼とした自然というものに凌駕されてしまう欧米人の脆弱さを描く物語へと変貌してしまう。西洋の根本的な思想は自然を排除しコントロールする部分にあるのではないかと思えるからだ。その中で遁走/自壊したのがカーツだったということなのではないか。カーツは、一見コワモテの軍人のように描かれつつも、妙に繊細に過ぎるような描き方もされていた。彼は知的で繊細であるがゆえに、単細胞なキルゴア中佐の如き「自らの世界以外の徹底的な排除」ができなかった。カーツは、知的で繊細であるがゆえに、東洋的なるものに飲み込まれ、逃げられなくなってしまったのだ。

だから、東洋の中にいる欧米人の欧米的アイデンティティの喪失というのが(後半における)この物語の、多分監督すら認識していないであろう内在テーマであり、実は戦争の狂気とかいうのは隠れ蓑だったんじゃないのか。ウィラードはなぜカーツを排除しなければならないのか。それは西洋的なるものが東洋的なるものに敗北するのを認めず、圧倒的な優位であることを示すためだったのではないか。だからこそウィラードはカーツ排除後に王国の王に君臨すること無くそれを封印し、自らの国へ、欧米圏へと帰ってゆくのだ。というのがオレの『地獄の黙示録』の見方である。そして黙示録というのは、キリスト教圏の語句ではあっても、信仰の違う東洋では意味を成さない語句でもあるのだ。

■あれこれ蛇足

そういや今回この記事を書くのにあれこれ調べたんだが、『地獄の黙示録』って最初コッポラがジョージ・ルーカスに監督させようとしてたってのを知ってびっくらこいた。しかしルーカスは「ジャングルやだよう暑いし虫いるし」と拒否、そして製作したのがあの『スター・ウォーズ』だったのだという。まあこの辺はシネフィルな皆さんは既にご存知の事とは思うが。それと、14歳のローレンス・フィッシュバーンが出演していたことは『特別完全版』観た時知ったのだが、今回観て知ったのはハリソン・フォードの出演(チョイ役)もあったということだな。いたよ!若かったよ!

あとクライマックスのシーンで遺跡に「Apocalypse Now」と書かれていたのを発見して驚いたが、あれはオリジナル版からあったものなのかな。ちなみに「Apocalypse Now」というタイトルは、脚本のジョン・ミリアスが、当時ヒッピーたちに流行っていたピースマーク(円の中に鳥の足跡を逆さまにしたような形をしたアレ)に「Nirvana Now(極楽だぜ!)」と書かれていたのをもじって作った言葉なのらしい。これ、マメな。

そういえば劇中チャールズ・マンソンの話が出てくるのだが、その時ふと「あ、これはタランティーノの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』と同じ時間軸にある物語なんだ」ということに気付いて奇妙な感覚に捉われた。アレとコレが同時に起こってるなんて、世界ってのは(まあ映画だけれども)不思議なもんだなあ、と。

地獄の黙示録 BOX [Blu-ray]

地獄の黙示録 BOX [Blu-ray]

  • 発売日: 2017/06/30
  • メディア: Blu-ray
 
地獄の黙示録 特別完全版 [Blu-ray]

地獄の黙示録 特別完全版 [Blu-ray]

  • 発売日: 2019/04/24
  • メディア: Blu-ray
 
闇の奥 (光文社古典新訳文庫)

闇の奥 (光文社古典新訳文庫)

 
闇の奥 (岩波文庫 赤 248-1)

闇の奥 (岩波文庫 赤 248-1)