戦争という名の虚無/映画『戦場にかける橋』【デヴィッド・リーン特集その3】

 ■戦場にかける橋 (監督:デヴィッド・リーン 1957年イギリス・アメリカ映画)

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デヴィッド・リーン監督作『アラビアのロレンス』や『ドクトル・ジバゴ』は観ていなくともこの『戦場にかける橋』を観たことのある方は多いのではないか。なぜならオレもその一人だからだ(全部自分基準かよ)(ロレンスとジバゴはこないだやっと観た)。 と言ってもオレが観たのは大昔、正月の晩か何かにTV放送していたものだった。そんな『戦場にかける橋』を最近のデヴィッド・リーン・ブーム(オレの中で)の一環として数十年ぶりにブルーレイで観直してみたのだが、いやーどうやら殆ど内容を忘れていたことが発覚、逆に新たな気持ちで鑑賞することが出来た。

『戦場にかける橋』は第二次世界大戦中、タイ/ビルマの国境地帯に置かれた日本軍管轄の捕虜収容所が舞台となる。この捕虜収容所にはイギリス兵らが収容され、強制労働によってクワイ川を渡る鉄道橋を建造させられていた。しかし新たに捕虜となったイギリス軍大佐ニコルソンと捕虜収容所長・斎藤との間に対立が起き、ニコルソンのサポタージュにより橋建設は暗礁に乗り上げる。斎藤はニコルソンを懐柔し建設は順調に進むかに見えたが、そこに連合軍による橋爆破計画が進行していた。

『戦場にかける橋』は戦争を題材にした映画ではあるが、戦闘シーンのスペクタクルを描くのではなくメインとなるのは捕虜と収容所側との対立である。こういった題材は映画『大脱走』をはじめあれこれあるとは思うのだが、『戦場にかける橋』は一種独特だと思ったのは、捕虜と収容所側とに「交渉の余地」が持ち込まれるといった部分だ(他にもそういった戦争映画があるのかもしれないけど知らないんだ、ゴメン)。

もうひとつ独特だったのはある意味敵役である日本軍を血も涙もない殺戮機械としては描いていないという部分だ。交渉する同士の立場がある意味同等に描かれるのである。日本軍大佐斎藤は喜怒哀楽を持ったキャラとして肉付けされ、冷徹ではあってもどこか人間臭い。例えば他の戦争映画であれば、これがドイツ軍だったらもっと冷酷無比な悪鬼の如きキャラとして描かれはしないか。またこれがベトナム軍だったら十把一絡げの有象無象として描かれないか。それは相手が一方的な「悪」だったり「敵」だったりするからだ。しかしこの作品では双方のコミュニケーションの在り方を描こうとする。ここでもデヴィッド・リーンらしい「異文化とのコミュニケーション」といったテーマが発露しているのだ。

逆に言うなら、融通が効かないとはいえ、この作品における日本軍は随分物分かりがいい描かれ方をしていて、実際の戦争ではこんなものだったろうか?という疑問も湧いたりはする。大日本帝国軍はもっと狂気に満ちた存在として描かれないとどうも納得いかない、というのは自虐史観か?とはいえ、なにしろ主題が「異文化とのコミュニケーション」なのだからこういった体裁になるのは当然なのかもしれない。映画というフィクションである以上、リアリズムそれ自体はまた別の話となるのだ。それと、この作品を観て思い出したのは『戦場のメリークリスマス』だが、テーマ的には似て非なるものがあるような気がする。

そしてやはり、あまりにアイロニカルなあのクライマックスだろう。「異文化とのコミュニケーション」をひとつのテーマとしながらもその最期に徹底的な死と破壊を持ち込むことでこの作品は戦争映画として一級の輝きに満ちている。それは戦争という名の虚無である。これはキューブリックフルメタル・ジャケット』でもコッポラ『地獄の黙示録』でも成し得なかった透徹した物語性なのではないのか。少なくともオレの中で「戦争映画」というジャンルの見方が刷新された作品であった。