メガロポリス (監督:フランシス・フォード・コッポラ 2024年アメリカ映画)
『ゴッドファーザー』シリーズ、『地獄の黙示録』のフランシス・フォード・コッポラ監督が40年の構想と莫大な私費を投じ完成させた映画『メガロポリス』。物語は古代ローマに着想を得た近未来の都市「ニューローマ」を舞台にしたSF叙事詩で、主人公となる天才建築家が理想都市を築こうとするさまが描かれているのだという。しかしこの作品、いざ公開されてみると賛否両論……というか酷評ばかり聞こえてきて、逆に「いったいどんなものを作っちゃったんだ?」と沸々と興味が湧いてきた。日本での公開も暫く危ぶまれていたがようやく公開にこぎつけ、恐る恐る観てみることにした。
主演はアダム・ドライバー、共演としてジャンカルロ・エスポジート、、ジョン・ボイト、シャイア・ラブーフ、ローレンス・フィッシュバーン、タリア・シャイア、そしてドラマ「ゲーム・オブ・スローンズ」シリーズのナタリー・エマニュエル。
【STORY】優位と劣化が共存する巨大都市ニューローマ。天才建築家シーザー・カティリーナ(アダム・ドライバー)は革新的な素材「メガロン」を用いて、持続可能で平等な理想都市「メガロポリス」を建設しようと計画する。彼は時間を操る神秘的な能力を持ち、過去と未来を見据えたビジョンで都市の変革を目指す。しかしシーザーの計画は保守的な市長フランクリン・キケロ(カルジャンロ・エスポジート)、富を握る銀行家ハミルトン・クラッスス(ジョン・ヴォイト)らから危険視されていた。
実のところオレにとってコッポラ作品というのは、先に挙げた『ゴッドファーザー』や『地獄の黙示録』以外の作品は、観ていてピンとこないかつまらないかどちらかの作品が多かったことをあらかじめ告白しておこう。映画史に残る作品を撮っちゃったばかりに巨匠扱いされているコッポラだが、その実他の多くの作品において実験的過ぎたり独立独歩過ぎて取っ付き難かったりするのだ。
だから今回の『メガロポリス』も、これら「実験的過ぎて取っ付き難い」作品の系譜なのだろうと思って観始め、案の定その通りの作品ではあった。だがしかし、幻想的で変幻自在な映像美に代表される圧倒的な熱量は『地獄の黙示録』に匹敵するものがあり、これを「取っ付き難い」の一言で切って捨てるのはあまりにも勿体ないばかりか、これを掘り下げようとしてみると様々な点で「面白さ」が湧いて出てきて、さすがコッポラ、一筋縄ではないことが伝わってくる。
物語を整理するなら、これは天才建築家が溢れんばかりの理念を持ちそれを世に役立てようとしながら、旧弊な思想信条しか持たない権力者や資本家がその足を引っ張る、というものになる。こうしてみるとSF的体裁は実は単なる目くらましでしかないのだが、ではなぜSFでなければならなかったのかというと、この物語が「寓話」だからなのだ。ではなぜ寓話なのか?というと、この作品には3つのテーマが重層的に絡み合い、それを効果的に見せるための方法だったということができるだろう。その3つとは、一つはコッポラ自身の自伝的な要素。もう一つは古代ローマの史実をモチーフにして現代に投影した物語。さらに一つはコッポラ自身が夢見ている理想ということではないか。
「コッポラ自身の自伝的な要素」といった部分では、主人公シーザーの才能と彼を阻む障壁に、映画監督コッポラの才能と彼を阻んだ商業主義的なハリウッドシステムへの抵抗が透けて見えるのだ。さらに主人公を取り巻く人間関係、『ゴッドファーザー』を思わせる家族の絆など、「家族の物語」として成立しているこの作品からは、映画製作に多くの家族を駆り出し(妻エレノアとの長年のパートナーシップや、子供たち:ソフィア、ロマン、故ジャン=カルロとの映画製作)、家族主義的な映画製作を成してきたコッポラの製作態度が重なってくる。
「古代ローマの史実をモチーフにして現代に投影した物語」というのは、この物語が紀元前63年のローマで起こった「カティリーナの陰謀」に着想を得ている点だ。「カティリーナの陰謀」は要約するなら名門出身だが借金に苦しむルキウス・セルギウス・カティリーナが企てた政権転覆計画であり、彼の改革志向が『メガロポリス』主人公であるシーザー・カティリーナの理想主義として再解釈されているのだ(同一の名前であることに注目)。これにより、古代ローマの事件と現代アメリカを対比させ、断絶や格差問題、理想主義と現実主義の衝突をひとつのテーマとして浮き上がらせているのである。
「コッポラ自身が夢見ている理想」とは、映画監督であることから離れ、現在86歳のコッポラが一人のアメリカ市民として、あるいは多くの家族を抱える家庭人として、この社会の未来をどう考え、どうあるべきなのかという理想を謳っているということだ。それは主人公シーザーの理想であると同時に、映画のラストで導き出されたものが示しているだろう。これは「自伝的要素」と「古代ローマの現代への投影」を通じて、コッポラが今何を感じ何をするべきか考えている、というその結論に当たるのだ。
このように解題してみると、この作品が実に良く練り上げられ、考え抜かれて創り上げられた作品なのかを理解することができる。ただしシーザーの理想主義的な演説に楽観的過ぎる臭みを感じることも確かで、その理想主義を簡単に肯定するにはオレ自身が懐疑主義的で悲観主義的ではあるのだが、ひとつの映画のまとめ方としては十分に情感にあふれ、美しいものであったことは認めざるを得ない。というかこの映画、コッポラ自身があえて説明をしていない部分が相当にあり、一度だけ観てつまらない、分からないと判断してしまうのはちょっと勿体ない気がする。今作品はある意味デヴィッド・リンチ的なカルト作であり、何度も物語に触れあるいは映像に酔うことでその真価を理解できる作品だと思えるのだ。