■日本沈没 / 小松左京
鳥島の南東にある無人島が、一夜にして海中に沈んだ。深海潜水艇の操艇責任者の小野寺は、地球物理学の田所博士とともに、近辺の海溝を調査し、海底の異変に気づく。以降、日本各地で地震や火山の噴火が頻発。自殺した友人を京都で弔っていた小野寺も、大地震に巻き込まれ、消息不明になるが、ある日突然、ナポリの消印がある辞表が会社に届いた。どうやら田所の個人研究所と関係があるようで…。日本SF史に輝くベストセラー。
今頃ではあるが、初めて小松左京の『日本沈没』を読んだ。オレは昔結構な小松左京好きだったのだが、この大ベストセラー小説だけは読んでいなかったのである。そしてこれが、なにしろ物凄かった。
改めて書くと、『日本沈没』は1973年、書き下ろし小説として発表され、上下巻380万部、その後も年月を経て460万部を超える大ベストセラーとなったSF小説である。物語はなにしろ、「日本列島が沈没してしまう」というものだ。テーマこそ荒唐無稽だが、物語は膨大な科学データと想像力を駆使し、「本当に」日本を太平洋へと沈めてしまうのだ。地震大国に生きる数多の日本人はこの物語を「もしかしたら……」と固唾を呑んで読み進めたことだろう。
初刊行時はオレは小学生だったが、超話題作だということはTVや雑誌を見てよく知っていた。映画化作品も何度も観た。TV版や、さいとうたかおによる漫画化作品にも触れていた。それだけ大ブームだったのだ。しかし、その後そこそこのSF小説ファンとなり、小松左京ファンとなったにもかかわらず、原作小説である『日本沈没』を読む事は無かった。映画等で物語をすっかり知っていたというのと、政治や国際社会も含めたシミュレーション小説のように思えて、ガキンチョのオレにはとっつき難く感じていたのだ。
そんなオレがなぜ今頃『日本沈没』なのかといえば、サブスクのアニメ化作品がいろいろな意味で話題になり、「そういや読んでないなあ」ということを思い出し、そろそろ読んどくかと数十年を経た重い腰を上げることになったという訳である。しかし、すっかり知ったつもりで読み始めた『日本沈没』は、それどころではない、とんでもなく重量級の物語だったのだ。
ここには、日本が沈没する、消えてなくなってしまうことに付随する、政治、経済、社会、世界情勢、さらにここに生きる日本人たちの、ありとあらゆるドラマが展開する。そして破滅に瀕すればこそ、「日本」という国の自然、文化、歴史が鮮やかに浮き上がり、「日本とはなんだったのか」「日本人とはなんだったのか」という文明論が展開することになるのだ。これらを作者は、膨大な情報量と圧倒的な知識、透徹した思想と文明史観でもって、微に入り細を穿ち、徹底的に描きまくるのだ。ここで描かれるのは沈みゆく日本だけではなく、世界全てなのだ。
こんな物語をたった一人の人間の想像力と筆力と情報収集力だけで生み出したとは、俄かには信じられないぐらいに凄まじい構成力がこの物語にはある。確かに最初想像していたようなシミュレーション小説的側面は大きいけれども、それよりも「なんとしてでも日本を沈める」という壮大な力技、実際には有り得る筈の無い超巨大地殻変動を有り得るもののように思わせる虚構の創出のしかた、その科学的ウルトラCの部分に、この物語のSF小説たる所以がある。
中盤の第二次関東大震災、さらに富士山噴火から先、否応無く沈んでゆく日本の運命が冷徹な筆致で描かれてゆくが、読みながら、オレは恐ろしくて恐ろしくて堪らなかった。そして最終的な科学データが、「あと8ヶ月で日本が沈む」と宣言した時に恐怖で打ち震えた。怖くて読み進めるのに躊躇した程だった。日本の1億1千万の人口(当時)を8ヶ月で退避させるなど不可能に決まっている。結果的に、沈没までに退避できた人口は8千万人、それでも膨大なものだが、逆に言うなら3千万人の日本人が物語の中で死ぬことになるのだ。
後半、日本のありとあらゆる土地が沈んでゆき、引き裂かれ、まるで生き物のように断末魔を上げてゆく。普段は「なーにがニホンだよ」とかスカしたことを思ってたくせに、「日本がずたずたに引き裂かれてゆく」という情景にここまで自分の胸が苦しくなるとは思わなかった。自分にとって日本ってなんなのだろう、とつい考えてしまった。ナショナリズムとかそういうのとは関係なく、日本で生きる事、日本人である事、そういったことに思いを馳せてしまう、そんな物語だった。
『日本沈没』は小松左京の戦争体験から書かれたのだという。「一億総玉砕」の戦争スローガンの元、甚大な被害と犠牲者を出し焼け跡となった日本は、その後奇跡的な経済成長を遂げることになる。だがその繁栄もオイルショックによって不安の影が差す。この安寧と平和は結局見せかけのものに過ぎないのではないか。ここで小松は焦土と化した戦後日本に立ち返り、「国土を失うとはどういう事なのだろう」と思い書かれたのが『日本沈没』であったのらしい。そんな小松が『日本沈没:第2部』に着手しながらなかなか書くことができなかったのは、これ以上日本人に茨の道を歩ませることができなかったからなのだという。それはやはり、小松なりの、日本と日本人への愛だったのだろうと思えた。