長編SF小説『最終人類』はナントモカントモだった

最終人類 (上)(下) / ザック・ジョーダン(著)、中原 尚哉(訳)

最終人類 上 (ハヤカワ文庫SF) 最終人類 下 (ハヤカワ文庫SF)

ありとあらゆる種族がひしめく広大なネットワーク宇宙。その片隅の軌道ステーションで、ウィドウ類の元殺し屋の母親と暮らすサーヤには秘密があった。宇宙種族にもっとも憎まれ、絶滅させられた「人類」の生き残りだったのだ。この秘密のため、彼女はネットワークに必須のインプラント手術を受けられず、まともに仕事も探せない。だが、そのサーヤの正体を知る集合精神オブザーバー類が突然、現れた! 新世代冒険SF。

膨大な知的種族がひしめく広大な宇宙を舞台に、「地球人類ただ一人の生き残り」とかいうことになっている少女が、己の運命と地球絶滅の謎を知る、というスペースオペラ『最終人類』を読んだんですけどね。それがねー、うーん、なんてーんですか、オレには相当につまんなかったんですわあ。

主人公少女、名前はサーヤっていうんですが、ウィドウ族という、蜘蛛みたいな姿をしていて殺し屋として恐れられている女に育てられていたんですね。ところでこの宇宙には多数の知的種族が存在しているんですが、その知的レベルで「知的種族カースト」が形作られており、サーヤあたりはそのカーストの下のほうだったりしてるんです。サーヤの暮らす宇宙ステーションにも多数の知的種族が生活していますが、サーヤは「下層種族」なんでなんだかいつも引け目を感じてます。

そんなサーヤがある日自分が「地球人類ただ一人の生き残り」と知ってしまいます。この宇宙では地球人類ってェのはなぜだか嫌われているらしく(その理由は最後に明らかになる)、サーヤの正体を知った他の宇宙種族がサーヤを亡き者にせんと迫ってくる。でまあ物語ではあれこれ戦いだの逃亡だの旅の仲間だのがあり、最終的にサーヤと宇宙との稀有壮大な運命へと繋がってゆく、ってのがこのオハナシなんですがね。

まずなんと言っても感じたのが、この作品の作者、小説書くのがヘタ。幼稚。いいところ中高生の書いた「ぼくのかんがえたさいきょうのうちゅうえすえふ」って感じ。内容にしても10代の女の子の成長譚で、10代の感性と視点を中心として書かれてしまっているせいか、それとも作者の頭の中が10代のまんまなのか、語り口が子供っぽいんですよ。描写すべきものを描写していないし、余計なことは細かく描くし、文章も技量がない。例えば「~ではない。~ではない。~ではない。」と短い否定形の文章を連ねるという妙な癖を何度も繰り返す。それと比喩や数字の使い方が大仰で大雑把。なんでもかんでも「1億の」「10億の」「1兆の」とデカイ数字を使いたがる。これ、子供がよくやるよね。

そして主人公であるサーヤのキャラクターがまさしく単なる子供。すぐ「私は怒った」「私は泣いた」と直情的で、その感情もコロコロ変わる。妙にプライドが高く自分を過大評価していて、なにかというと「私はウィドウ族のサーヤ」だの「私は娘のサーヤ」だの啖呵を切り、「下層種族扱いされてるけどアタシのバックは太いんだぜ」アピールしたがる。自己紹介乙ってやつですな。その割に自分ではたいしたこともせず回りに流されてばかりで、ラストまで周囲のお膳立てだけでなんとかしてしまう。あと、高知性レベル種族も沢山出てくるけど、どれもこれも知性が高く見えないってのはなんなんですかね?

これ要するに、「社会階層が低くて劣等感を持ってる子供が、自分の親が暴力を生業としている事をかさに着て自分は特別だと思い込み、ある日インターネットを発見してSNSブイブイクソリプ書き散らかしてろくでもない注目を浴び、痛い目に遭いつつも古参のゴロツキに担ぎ上げられSNSを焼野原にし、自分はこの世界でサイコーと誤解する」、とまあそんなお話を宇宙規模に拡大してみたものなんじゃないっすかね?その宇宙規模で稀有壮大ってのも要するに小松左京の『果てしなき流れの果てに』で、だったら小松サンの小説読んだ方がまだ面白いですよ。

特に紹介されていないけどどうしたってこれヤングアダルト向けのSF小説で、ヤングアダルト向けでもよい作品はあるけどこれはどうにも「子供向け」な感じ。「子供向け」なら「子供向け」って紹介してほしかったなあ。

最終人類 上 (ハヤカワ文庫SF)

最終人類 上 (ハヤカワ文庫SF)

 
最終人類 下 (ハヤカワ文庫SF)

最終人類 下 (ハヤカワ文庫SF)

 
新装版 果しなき流れの果に (ハルキ文庫)

新装版 果しなき流れの果に (ハルキ文庫)

  • 作者:小松左京
  • 発売日: 2018/06/13
  • メディア: 文庫