子供たちだけが生き残った地球/劉慈欣のデビュー作『超新星紀元』を読んだ

超新星紀元 /劉慈欣(著)、大森望(訳)、光吉さくら(訳)、ワン チャイ(訳)

超新星紀元

1999年末、超新星爆発によって発生した放射線バーストが地球に降り注ぎ、人類に壊滅的な被害をもたらす。一年後に十三歳以上の大人すべてが死にいたることが判明したのだ。“超新星紀元”の地球は子どもたちに託された……! 『三体』劉慈欣の長篇デビュー作

『三体』シリーズでSF界に名を馳せた劉慈欣が2003年に上梓したデビュー作『超新星紀元』が日本でも訳出されたので早速読んでみることにした。

地球から8光年離れたある恒星が超新星爆発を起こし、大量の放射線が現代の地球に降り注ぐことになる。放射線は人体に壊滅的な打撃を及ぼし、染色体に自己修復能力がある12歳以上の人間は皆死に絶える運命にあった。それから2年後、14歳以下の子供たちだけが生き残った地球で、新たな人類の紀元、「超新星紀元」が始まる事になる……というのがストーリー。

数百年前に起こった超新星爆発から、それが現代の地球で観測され、その放射線により人類滅亡の運命が明らかになるまでの描写は圧巻だ。あと2年という死の運命が確実となった大人たちは、その破滅から逃れ得る12歳以下の子供たちに人類文明を存続させるためのあらゆるノウハウを短期間で叩き込む。

たった2年で何ができるのか?世界中の大人たちがこれまで世界を構築し存続させ運用していた、ありとあらゆる人類の営み、単純作業から始まり高度に専門的かつ複雑で危険を伴うものすらある技術と学術まで、それを年端も行かない子供たちに短期間で習得させることは可能なのか?いや、それは不可能であるとしても、不完全なものに終わるとしても、やらねばならないのだ。この悲壮感にまず引き込まれてしまう。

「12歳以下の子供たちだけが救われる」というのはちょっと単純で機械的過ぎるし科学的にどうなのかと思ってしまうが、逆に「子供たちだけが生き残った惑星」という設定を実現させる強引な方便としては悪くない。そこに劉慈欣らしい強力な大風呂敷を感じさせるからだ。

さてこうして子供たちだけの地球文明「超新星紀元」が始まるわけだが、いったいどんな苦悩と困難が待っているのか……と固唾を飲んで読み進めてみたら、まあ最初こそ悲痛な苦悩と困難はあるにせよ、ギクシャクしながらもなぜだかなんとなくもやもやっと適当に世界は保たれてしまうことになってしまい、そこで新たな展開が待ち受ける訳なのだが、その「新たな展開」というのが「はぁっ?」と呆気に取られてしまうものなのだ。

オレがこの物語に想像していたのは「子供たちだけが生き残った惑星」で、その子供たちがどのようにこの世界を運用してゆくのかのシミュレーションだった。大人たちが運用していた高度な技術の履修もそうだが、人口それ自体が激減した人類が、これまでと同じようにそれぞれの社会なり国家なりを運営してゆくのは不可能であると同時に無意味である。大人たちが遺した人類の膨大な設備やインフラはあるにせよ、それをメンテナンスしながら存続させる知識と技術とさらに人員が決定的に足りないはずだからだ。同時に極度に縮小した人口の中で過去と同じ社会・国家を存続させても意味がない。ではそれはどのように変化しあるいは変化させ、新たな人類文明が築かれるのか?という物語になるのだろうとてっきり思っていた。

ところが劉慈欣が提示した「新たな展開」は、そういったリアリスティックなシミュレーションを歯牙にも掛けることなく一蹴し、予想だもしない斜め上の物語へと向かってゆくのだ。これをして「斬新なアイディア」と取る感想もあるが、オレにはあまりに無茶振りな非現実的なものに思えて、この後半からはほとんど白けっぱなしで読んでいた。多くは書かないが小松左京の短篇小説『お召し』や楳図かずおの長編コミック『漂流教室』の如きシリアスさで始まった物語が、突如諸星大二郎の短篇コミック『子供の王国』へと乱調してしまうのだ。

とはいえ『三体』3部作やそれ以前の『三体0【ゼロ】球状閃電』にしても、劉慈欣という作家は馴染みのある科学的事象から始まりつつ、いきなり想像の遥か上を行くとんでもない跳躍ぶりを見せる作家だった。そのとんでもない跳躍ぶり、その唖然とさせられる大法螺大風呂敷の拡げ方が劉慈欣の持ち味だと考えるなら、この『超新星紀元』もまた実に劉慈欣らしい、というより劉慈欣の原点的な作品だったという事もできるだろう。オレはノレなかったが。