バービー(監督:グレタ・ガーウィグ 2023年アメリカ映画)
オレとドール
実はオレにはかつてドール=人形を集める趣味があった。フィギュアではなく着せ替え人形のドールである。着せ替え人形と言ってもタカラトミーから販売されているリカちゃん人形ではなく、「momoko」や「ブライス」と呼ばれる、基本的に大人の女性をターゲットにした玩具だ。オレが集めたそれらドールの写真はオレのブログで見ることができる。
なんでむさ苦しいオッサンがそんなものを?と普通に思われるだろうが、答えはシンプル、「綺麗だった」「可愛らしかった」、ただそれだけである。そう。綺麗は正義。可愛いは正義。オレがむさ苦しいオッサンだろうがなんだろうがそんなものは関係ない。ただそこには正義があるだけだ。なんといってもオレは綺麗なもの、可愛らしいものの大好きな人間なのである。
そんなドール趣味を続けていたオレだったが、ちょっと敷居が高くて手を出さなかったドールジャンルが幾つかあった。その一つがマテル社から販売されていた「バービー」だった。それも女児用の普及版ではなく、やはり大人の女性やマニアをターゲットにした、よりゴージャスで高価なバービー人形だった。敷居が高く感じたのはそのゴージャス感が肌に合わなかったからというのもあった。とはいえ、一つのドールとして一目は置いていて、なんとなく気にしてはいたのだ。
出演者とあらすじ
そしてなんと今回、そのバービー人形を題材とした映画が製作され公開されるというではないか。それを知った時のオレの気持ちは、映画ファンが新作映画の報を聞いた時のものとはちょっと違っていた筈だ。それは、あの「綺麗」「可愛い」の気持ちを再び思い出させてくれたからだ。
主演は『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 Birds of Prey』『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』のマーゴット・ロビー、『ドライヴ』『ブレードランナー 2049』のライアン・ゴズリング、『俺たちフィギュアスケーター』『主人公は僕だった』ウィル・フェレル、『シャン・チー テン・リングスの伝説』のシム・リウ、「RED レッド」シリーズ「ワイルド・スピード」シリーズのヘレン・ミレン。監督は『レディ・バード』『ストーリー・オブ・マイライフ 私の若草物語』のグレタ・ガーウィグ。
【物語】ピンクに彩られた夢のような世界「バービーランド」。そこに暮らす住民は、皆が「バービー」であり、皆が「ケン」と呼ばれている。そんなバービーランドで、オシャレ好きなバービーは、ピュアなボーイフレンドのケンとともに、完璧でハッピーな毎日を過ごしていた。ところがある日、彼女の身体に異変が起こる。困った彼女は世界の秘密を知る変わり者のバービーに導かれ、ケンとともに人間の世界へと旅に出る。しかしロサンゼルスにたどり着いたバービーとケンは人間たちから好奇の目を向けられ、思わぬトラブルに見舞われてしまう。
多数の暗示的要素を内包した豊かな物語性
とても楽しめた作品だった。この作品は表層的にはコメディ・ファンタジーだが、様々な暗示的な要素を内包しており、それらが多層的に折り重なった、非常に豊かな物語性を持ち合わせているのだ。
まずなんといっても最高に楽しく可愛らしいビジュアルの素晴らしさだろう。バービーたちの美しいファッション、「おもちゃ箱をひっくり返したような」という言葉そのままの楽しくファンシーなバービーワールド。ピンクを基調としたバービーワールドのバービーの家はまさにおもちゃの家で、そのギミックもおもちゃそのもの、空も海もおもちゃだから造り物でできている。バービー自体もおもちゃだから実際に飲み食いはしないし多分呼吸もしていない。こういった徹底した「おもちゃの世界」を作り上げていることにまず感嘆させられる。
こうした「現実じゃない世界」で暮らすバービーたちの生活や行動がどこかコミカルで、ケンたちとのやりとりもなんだかふわふわしていて笑ってしまう。彼らは人形で、そして人形はそれを遊ぶ女の子たちがロールプレイするためのアイテムで、つまり人形たちには主体がないから、だから「毎日楽しいけど自分が何をしているのかは実は理解していない」という事になる。この辺り、ディズニー映画『トイ・ストーリー』と真逆のアプローチになっていて、そしてこれが映画『バービー』の大きなポイントとなる部分でもある。しかしこの「主体がない」バービーが自らの異変に気付き「主体」を求めようとするところから物語が動き出すことになる。
「バービーとは何か?」
「バービーの主体とは何か?」、それは「バービーとは何か?」ということだ。「バービーとは何か?」についてこの映画はあからさまなぐらい明示的だ。それはオープニングの「女性は子供を産み育てるだけの存在ではない」という描写であり、「バービーはそれに代わり女性が自分らしく自由に生きることの象徴である」というメッセージである。バービーはそれで遊ぶ女の子たちの願望の投影であり、社会における女性進出のシンボルである、と映画は語りかける。返す刀でマンスプレイニングの愚かさや有害な男らしさを揶揄する。こういった形で非常にフェミニズム的であり強いジェンダー意識を打ち出しているのもこの物語だ。
しかし映画は、こういったフェミニズム的側面を持ちながらも、決してそれだけの作品ではない。それはバービーランドというファンタジー世界を描き出すことで、夢見る事の大切さをも描いているのだ。完璧な世界バービーランドは決して現実のものではないけれども、こうありたいという願いの一つの形でもある。自分らしく生きられず自由ではない厳しい現実は確かに存在するが、それでも夢見続けるの諦めないこと、幸福へ近づこうとすること、その象徴としてバービーランドは存在する。同時にそれはままならない現実からの避難所でもあり、それこそがファンタジーというものの役割である。そして、こういったファンタジーを請い求める心は男も女も関係ない。だからこそ映画『バービー』は、単にフェミニズムやジェンダーを描いたものではなく、もっと普遍的な物語性を兼ね備えた作品だと思うのだ。
アメリカという国
さてもう少し大きくこの作品を俯瞰してみると、これは実にアメリカ的な物語だな、と思えるのも確かだ。現実がどうであるのかという事は別にして、自己実現への徹底的な肯定性、願えば叶うという楽観性、こういったメッセージを強烈に打ち出せるのはまさにアメリカという国だからこそではないか。この作品がヨーロッパやアジア圏のものだとしたら、どうにも嘘臭く白々しく感じてしまいはしないか。
もう一つ、バービー人形というのは、女児玩具であると同時に、強大なマスプロダクツだということである。それは強力な資本主義に裏打ちされたものであり、50年代終盤~60年代初期のアメリカ好景気の頃に生み出されたものだった。だからこそバービーには経済的豊かさの夢が詰まっていて、それ自体が「アメリカの夢」の象徴的存在だったのではないか。60年代に活躍したアンディー・ウォーホルの大量消費社会を揶揄したポップアートと呼応する形でバービー人形は存在していた。それは大量消費材の具現化だったからである。その後70年代から始まるインフレーションと政治的不信は「アメリカへの失望」へと変貌したが、その「失われた夢」の復権を描いたのが映画『バービー』だったとも思えるのだ。
最後にあれこれ余談を。映画の出演者は誰もがよかったが、やはり主演のマーゴット・ロビーの表現力には唸らされた。実はオレ、結構なマーゴット・ロビー・ファンで、部屋には『ワンス・アポン・ナ・タイム・イン・アメリカ』出演時のマーゴット・ロビーが映ったポスターが貼ってあるぐらいだ。結構楽しみにしていた映画でもあり、映画館にはピンクのシャツを着て馳せ参じたことも白状しておこう。劇場はほぼ満席、物販コーナーには大勢の女性たちが集まり、上映の最中はコアなバービーファンの方たちが、レア・バービーが登場するたびにざわめくという楽しさもあった。日本公開前にはあれこれと映画の内容とはまるで関係ないケチが付けられた映画ではあったが、日本でもヒットすることを切に願う。