劉慈欣が描く蟻と恐竜が文明を築いていた幻想の白亜紀『白亜紀往事』

白亜紀往事 / 劉 慈欣 (著)、大森 望 (翻訳)、古市 雅子 (翻訳)

白亜紀往事

恐竜と蟻が、現代人類社会と変わらぬ高度な文明を築き、地球を支配していたもう一つの白亜紀。恐竜は柔軟な思考力、蟻は精確な技術力で補完し合い共存していた。だが、二つの文明は深刻な対立に陥り……。種の存亡をかけた戦いを描く、劉慈欣入門に最適な中篇

今から6千500万年前に、蟻と恐竜が知性を持ち、お互いに共存し合いながら高度な文明を築いていたら?『三体』の劉慈欣が2004年に発表したSF小説白亜紀往事』は、そんな奇想天外な着想の元に描かれた作品である。

この『白亜紀往事』、長さ的には200ページに満たない中編小説となるのだが、これをさらに短くした短編小説版『白亜紀往事』も存在しており、それは既刊となっている短編集『老神介護』に収録されている。しかしこの中編作と短編を読み比べるなら、中編作は描くべき事柄を余すところなく描き、非常に充実した物語として完成している部分が、これを端折った短編作は、当然だかアイディアを楽しむだけのダイジェスト版でしかなく、読み応えとして雲泥の差があった。だから短編版を読んでいる方も安心してこの中編版を楽しむといいと思う。さて物語だ。そもそも矮小サイズの昆虫である蟻と、地球の歴史でも類を見ない巨大さを誇っていた恐竜が、お互いに協力し合いながら文明を発展させる、という極端なスケール感の対比がまず面白い。面白い、というか思いついてもわざわざ小説にしないだろ、と思わせる馬鹿馬鹿しさがある。しかし劉慈欣は持ち前の優れた想像力と広範な科学知識でもって無理矢理その設定を捻じ伏せ、まさかと思わせる説得力でもって1篇の小説に仕上げているのだからやはりその力量には驚かざるを得ない。

なにしろ最初は「そんな馬鹿な」と半笑いで読み始めた物語が、途中から「こんなことがあったとしてもおかしくない」とすら思わせる迫真性を帯びてくるのだ。もちろん劉慈欣自身は真面目な顔をしながら馬鹿な話を書いただけなのだろうが。そもそも劉慈欣はハードなSF世界を描く作家というよりも、どこまでも馬鹿な大風呂敷を拡げてそれに説得力を持たせるかということを、無駄に膨大な科学知識を演繹して挑戦するという、ある種「SFで遊んでいる」作家なのだ。だから劉慈欣のSFはわざと有り得ない方向へ有り得ない方向へと物語が乱調する。その予測できなさがまた彼の作品の持ち味であり魅力なのだ。

蟻と恐竜がなぜ共生するようになったか?というのは、恐竜の歯に挟まった肉片を蟻の群れが取り除いたところから始まる。唐突に思われるかもしれないが現実でもワニの歯を掃除するワニチドリという鳥が存在するので、あながちあり得ないことではないのだ。さらにここから蟻が恐竜の体内に入り病変を治癒し始め、恐竜はそんな蟻に豊富な肉片を与え、その相互利益により食糧事情が豊かになり、その結果文明の曙に至るというわけなのだ。よく考えるなら飛躍し過ぎだが、なんとなく説得力があるではないか。

こうして高度な文明(コンピューターや宇宙船まで持っている!)を手にした蟻と恐竜だが、やはり基本は全く違う生物、いつしか対立し遂には大戦争へと至る事になるのだ。いや、「蟻と恐竜の戦争」って!?そんなもの成立するのかよ!?と思わせながらそれを見事に描き切るのだからお見事というしかない。そしてこの「蟻と恐竜の戦争」には、東洋文明と西洋文明の衝突、米ソに代表される東西陣営の冷戦構造が暗喩として提示され、物語は寓話性という新たな段階へとシフトする。こういう切り替えがまたしても上手い。

遂には戦略核まで登場し、陰謀や諜報や政治抗争までが描かれ、さらには「なぜ恐竜は滅んだのか?」という地球史の謎に一つの、そして最も有り得ない回答を用意する。同時に、そこまで発達した蟻・恐竜の科学文明がなぜ現在発見されないのか?という理由の付け方までも上手い。なにからなにまで破格の、そして文字通りの「センス・オブ・ワンダー」に満ち溢れた、同時に子供でも楽しめそうな敷居の低さを持つ、「愉しさの詰まったSF」がここにある。そしてしかも、やはり馬鹿馬鹿しい物語なのだ。いやこれには感服させられた。