- 作者: グレッグイーガン,Greg Egan,山岸真
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2003/07/01
- メディア: 文庫
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作品を紹介。
「適切な愛」初っ端から医療SF。事故で体を失った夫の脳を、クローン・ボディが出来るまで腹の中に入れる羽目になった妻の話。グロテスクな話ではあるが、生命や愛情という側面から見れば、これをグロと言い切ってしまえない部分がある。テクノロジーとそれに相対する人の感情、といったテーマだ。
「闇の中へ」は地球上にワームホールがランダムに出現しては消えてゆく、という原因不明の事件が多発し、その中に取り残された人々を救助しに行くレスキュー隊員の話。主人公は限られた時間に救えるものと救えないものを振り分けなければならないが、これは現実の緊急医療でもありえることであり、そういった医療の現場について書かれた物語だといえる。
「愛撫」は地下室から発見されたスフィンクスに似たキメラ生物の謎を追う話。後半出てくる人体改造に取りつかれた基地外の富豪は整形手術マニアへの皮肉だろうか。
「道徳的ウィルス学者」は狂信的な倫理観を持った学者が不貞をはたらいたものが死に至るウィルスを開発するというブラックジョーク・ネタ。しかしこれが政治信条とか人種などから選別的に攻撃するウィルスだとしたら空恐ろしいものがある。ある意味倫理を否定するものはまた別の狂った倫理であるともいえるのだ。
「移相夢」は脳をデータ化しアンドロイドにコピーして延命するのがありふれたものになった未来、その手術を恐れる老人の話。思考データコピーそれ自体が延命と言えるのか?というイーガンお得意のアイデンティティを巡る話だが、さんざんこのテーマでやってるので少々飽きてくるか。
「チェルノブイリの聖母」は東欧を舞台に私立探偵が奪われた聖母のイコンを追うハードボイルドタッチのサスペンス。サイバーパンクなガジェットの扱いと非常にスリリングかつスピーディーな物語展開が素晴らしかった。「道徳的ウィルス学者」や『TAP』収録の「銀炎」と同じく、そのテーマはカルトであり狂信ということになるのだろうが、イーガンがこれらカルトを反科学・反知性と位置づけ、前近代的なものとして忌避していることの表れなのかもしれない。
「ボーダー・ガード」は不老不死は可能になったが、人口過剰を抑えるため、様々な人工宇宙へ転移し続けなければならない人々の悲しみを描く物語。決して死は訪れない代わりに、終生の別れはやはり存在する。生きる、ということはただ生命があることなのではなく、あなたとわたしがここに共にいることなのではないのか、という問いかけは、SFの枠を超えて人間存在のありかたを考えさせる。
「血をわけた姉妹」は双子の姉妹が同じウィルス病にかかり、同じ処方を受けたにも関わらず、片方は生き、片方は死亡する。それが納得のできない姉はその謎を追う、という物語。医療サスペンスだが、世界を覆う巨大製薬会社の陰謀という物語は、ジョン・ル・カレの国際陰謀小説『ナイロビの蜂』を思わすポリティカル・スリラーであり、さらにグローバル経済の暗部さえ描く。しかし物語の本当の主題は、残されたものの悲しみであり理不尽な死への怒りなのだ。
そしてタイトル作「しあわせの理由」が実に素晴らしい。疾病により脳内麻薬様物質の分泌が極端に低下し、重度の鬱病になった青年が主人公。彼は治療として脳内麻薬様物質を自由にコントロールできるいわゆる”幸福の合成装置”を得るが、それによりどのような幸福感であっても「それを幸福と感じるようにコントロールされた幸福」でしかなくなってしまうのだ。この着想はしびれた。煎じ詰めるなら幸福とは、愛でも、お金でも、社会的立場でもなく、脳内麻薬様物質が分泌されている状態に過ぎないとも言える。人が生きる意志や価値とする物事は、実は微量な脳内ホルモンの分泌に左右されているだけの問題であり、人はそれに振り回され操られることで一生を費やすとも言えるではないか。しかし、だからと言って人の生は虚しいものなのか。幸福とは、それだけのものなのか。イーガンはそういった人の生きる根源である問題提起の中で、本当の「しあわせの理由」を描こうとする。これは大傑作といっていいだろう。