『ひとりっ子』『TAP』 / グレッグ・イーガン 【再録】

グレッグ・イーガン短編集特集、今日のエントリは以前書いたものの再録。単にリンク貼っておけばいいものではありますが、4日間イーガンで並べてみる、というのをちょっとやってみたかったのでこんな形にしました)

グレッグ・イーガンの第三短編集

グレッグ・イーガン早川書房からの第三短編集。イーガンSFを誰でも楽しめるエンターテイメント作品として推す事は難しいが、彼のSF作品は現代SF小説のなかでも際立ってスリリングな世界を描いているものだということは保証できる。イーガンは最新テクノロジーと最新数学・物理学理論を駆使したハードSF作家のように思われがちだが、彼の小説が”理系の皮を被った文系”と言われるように、作者が真に目を向けているのは”人間存在とは何か”というところにあるとオレは思う。一見難解な科学理論や目くるめく様な未来テクノロジーは、それを扱いそしてそれに翻弄される人間達の本質を浮き上がらせる為の方便なのである。

例えば冒頭の《行動原理》《真心》では脳内にインプラントされたナノマシンによる意識改変と人間性改造が描かれるが、物語の根幹となるテーマは悔恨や逡巡、愛の不確定性や愛の不在への恐怖なのだ。人は誰しも思い惑い不安に心を奪われ、自己存在がアンバランスになる経験などあるだろう。そのとき何らかの行為や酒や薬物へ依存することで心のバランスを保とうとすることなど現実でも在り得ることだ。しかしイーガンはそこでテクノロジーを外挿する。登場人物たちは皆、未来テクノロジーが生んだハードウェアという異質な”外部”を肉体に取り込むことでしか自らを見出せない。そしてそれは自己疎外以外の何者でもないのだと思う。このテクノロジー人間性の対比が悲しみと哀れさをなお一層顕わにするのだ。

《ルミナス》の冒頭は『MJ』として映画化されたギブソン作品《運び屋ジョニー》を思わせる非合法データ・クーリエと武装化された巨大コングロマリットとの戦いを髣髴させてサイバーパンクファンをにんまりさせる。作中、イーガンの長編作品タイトルと同じ《万物理論》という言葉が使われるが直接は関係ないようだ。物語は”数学スリラー”とでも呼ぶようなイーガンお得意の架空理論を駆使した作品だが、これがちょっと難解。要するに「この宇宙には我々の知っている数学の解法とは全く違う解を導き出すもう一つの数学的宇宙が存在する」ということなのだろうか。まあイーガン一流の大法螺なので突き詰めて考えることは無いが、凄いのはそのクライマックスだ。《以下ネタバレ》情景的には世界最速のスーパーコンピューターの前で主人公らが議論しているだけなのだが、そのスーパーコンピューターは計算のみによって一つの宇宙を消滅させる作業をしているのである。まさにイーガンらしい大風呂敷の生きる一作!

《決断者》も少し難解。主人公が装着した”アイ・パッド”なるハードウェアが見せる異様な情景が物語の中心だが、これは「意識の流れが生む蓋然性を抽象化されたヴィジョンとして視覚できる装置」という見方で正しいだろうか。そもそもそんなものが何の役に立つのかオレの想像力では思いつかないが、「決定されない全ての情景を視覚体験する」というのは確かに地獄のようなものであろう。これはちょっとした実験作かな。

《ふたりの距離》は脳髄が既にハードウェアと置換された未来で、”あなたと私の距離を出来るだけ埋めたい”という男女がテクノロジーによって実際に距離を埋めて行ってしまう、という皮肉に満ちた作品。恋人達は肉体の交換から始まり、クローンを使った同人物として過ごし、そして精神の融合まで手を染めようとする。体験を共有しなければ気が済まない、といった恋愛感情に対するグロテスクなジョークといったところだろう。

《オラクル》人工知能研究の第一人者でありコンピュータ工学の父と呼ばれたアラン・チューリングと、『ナルニア国ものがたり』の作者であると同時に神学者でもあったC・S・ルイスが出会っていたら、という歴史の”if”を扱った作品。彼等は歴史的に同年代ではあったが、実際に出会うことは無かったであろう。平行宇宙間の跳躍や歴史改変、アンドロイドなどSF的アイディアが盛り込まれ、科学と宗教の拮抗が描かれるこの作品はしかし、その本質的なテーマとするところは”魂とは何か”ということなのではないだろうか。将来的には自ら意思決定する人工知能の開発は有り得るだろう。そしてそれが人と変わりない存在になることも。これを禁忌とする神学は不合理で時代遅れのものなのかもしれない。しかしその科学が魂の存在を証明できないのなら、我々の移ろいやすい心の寄る辺とするものはいったいどこにあるというのだろうか。それはイーガンさえこの作品の中で結論を出していない。若干消化不良気味の部分もあるがイーガンには珍しい歴史ものであり、意欲作と見るべきだろう。なお冒頭のチューリングが暴力的な監禁を受けている描写は、彼が当時違法であったゲイだった為に当局によって成されたものということなのだろう。別の平行宇宙での出来事ということで実際には監禁の事実は無いが、しかし現実では保護観察処分となりホルモン注射を強要され、その後彼は自殺している。

○《ひとりっ子》の構造

タイトル作である《ひとりっ子》は大雑把に言うならば所謂”ピノキオ”テーマということができるだろうか。即ち”アンドロイドに心はあるのか?”ということだ。ただこの物語はそれのみに留まらない複雑に交錯したテーマを孕んでおり、それだけに作品集中最も味わいの深い物語になっていることは確かだ。
少しこの物語の持つテーマを整理してみよう。
・最初に挙げた”ピノキオ”テーマ。アンドロイドの人間性について。
量子コンピュータによる多次元宇宙解釈。一般の読者にはこの記述が最も難解で取っ付き難いと思われる。
・さらに量子コンピュータを思考回路として持つアンドロイドの生きる決定論的宇宙の存在。
・もっと人間的な、親と子の愛情、関係の在り方について。親は子に何を託すべきか?子を持つ、というのはどういうことか?について描かれる。
これらについてちょっとづつ解題してみよう。

(1)ピノキオ・テーマ
ピノキオテーマについて。これは鉄腕アトムから石ノ森章太郎のヒーロー物、P・K・ディックの描く”シュミラクラ”ないし”レプリカント”、さらにはスピルバーグの映画《A.I.》に至るまで、SFではお馴染のテーマだろう。これらの物語は先験的にアンドロイドに心は”在る”ものとして描かれるけれど、現実的なテクノロジーから考えれば、人間と全く同じように思考するだけではなく、さらには個性と感情、即ちアイデンティティを備えた”自我”というものを創り得るのか?ということだろう。イーガンはここで量子コンピュータを持ち出すことで物語的に解決しているが、しかしそもそも”心”とはなんなのだろうか。もしもこれを数値的に解析し如何様にも再現可能なのならば、”人間と同じ自我”を創り出すことなどよりも、我々の持つ”人間的であるが故の問題”が全て数値的な誤差の修正によってテクノロジカルに解決できることになってしまうのはないか。脳の持つ機能のマッピングを100%遣り遂げる事が可能だとしても、それは”魂の地図”では決して有り得ないのではないか。いや、オレ自身現在のこの辺の理論について明るいわけでは決してないので、感傷的で”ナイーブな”物の言い方になっているかもしれない。ただ、これはイーガンの物語を否定しているわけではなく、最新テクノロジーによって肉薄してきた”魂の複製”の可否を、フィクションの上だとはいえこうして見せられると、なにかいろんな意味で考えさせられたのだ。

(2)量子コンピュータと平行宇宙
量子コンピュータによる多次元宇宙解釈。これがなにしろ手強い。原理を別とするなら量子コンピュータは単純に言えば古典的なコンピュータの持つ”0”と”1”の2進法による計算方法を遥かに越えた超並列的な計算を行うことの出来るコンピュータ、つまりは古典的なコンピュータが数億台でもって行わなければ実行できない計算を一度の計算でもって行われるコンピュータであると言えばいいのだろうか。これは現実に開発中のものであり、決して絵空事のものではない。で、それがどうして多次元宇宙という考えが関わってくるのかというと量子力学の話をしなければならないだが、量子的系の状態を例えた「シュレディンガーの猫」のお話では”猫は死んでもいるし生きてもいる”という確率論的な”観測のパラドックス”を生むが(コペンハーゲン派)、この考えに対し、

結局、宇宙を「ひとつの宇宙とその確率的ゆらぎ」として見るのではなく、確率的な「それぞれの場合」をすべて実在化して、それぞれ「宇宙」とすることで、ヒュー・エヴェレットは「多元宇宙」を作り上げる。
平行宇宙論 ヒュー・エヴェレットの量子力学解釈(1957)

という解釈(エヴェレット解釈)を導入することで不確定で確立論的な(ひとつの)宇宙を決定論的な宇宙の無限次元のうちの一つとして考えようとしたわけである。これが平行宇宙論である。そして量子コンピュータはその決定の際に無数に分岐する平行宇宙を生み出しているということなのだろう。

(3)デヴィッド・ドイッチュの多世界解釈
量子コンピュータを思考回路として持つアンドロイドの生きる決定論的宇宙の存在」を考える時に参考になると思われるのは「デヴィッド・ドイッチュの多世界解釈」である。

意識を多宇宙にまたがる複雑性と理解すれば、結論はだせないが、意識と物理的過程を両立することができるようになった。
自由意志と物理学の折り合いが悪いのは、決定論にあやまりがあるのではなく、古典的時空にある。例え、非決定的(ランダムな)法則に置き換えても、自由意志の問題は解決がつかない。自由はランダムさとは関係がない。肝心なのは、我々が何者であるか意識し、何をしようと考え、決定される行動だ。
万物の理論 デヴィッド・ドイッチュ

理論物理学のデイヴィッド・ドイッチュは量子コンピュータの実現性を初めて証明した人物であるが、書評などを読むとこの「デヴィッド・ドイッチュの多世界解釈」では量子コンピュータのみならず、平行宇宙、仮想現実、コンピュータサイエンス、認識論、数学的真理、進化論など広汎な項目を網羅し、科学の新たなパラダイムシフトを提唱しているものとなっているようだ。その項目の中ではそのものずばり「万物の理論」と呼ばれるものもあり、どうやらこのデイヴィッド・ドイッチュがグレッグ・イーガンのネタ本になっているのではないかと思わせる問題提起を数多くしている。オレが読解出来るような類の書籍だとは思わないが、興味の在る方は触れられてみるといい。物理学のフィールドでは賛否両論あるようだが、ひとつの思弁を導き出す実験として非常に優れた切り口を見せているように思う。
さてここでドイッチェは、”自由意志こそが量子論的/多世界的宇宙を反映したもの”と説いている。そこからイーガンは量子コンピュータを頭脳に持つ人工知能が限りなく人間に近い思考をするものであると(あくまでフィクショナルに)導き出したのだろう。しかし物語内の実験の描写では触れられているが、実際の所、量子コンピュータ知性が物事を意識的に”決定”してゆく過程というのはイメージし難いものがある。また、人間の知性を電脳で再現するには量子コンピュータよりもカオスコンピュータのほうが適しているのではないか、という記述もどこかで読んだ事がある。

(4)物語としての《ひとりっ子》
物語はある科学者の男女が出会い結婚するが、子供に恵まれない為にまだ研究途上の量子コンピュータを頭脳に持つアンドロイドを子供として迎え入れることを決意することから始まる。この人工生命を子供として受け入れる、という感覚は、小動物や人形を我が子のように扱うようないわば代償行為に近いものに見え、最初どこか歪なものに感じてしまった。成長過程に合わせた大小のアンドロイド擬体が並べられる描写もあるが、やはりグロテスクなのだ。
しかし量子コンピュータ知性の少女が”成長”し、主人公夫婦と対話し生活を共にする姿はやはり愛くるしい。それは人間とは変わりの無い情景だ。だがここで描かれる関係は親子のものだけれども、その底流には「しかし人工物には変わりは無い」というイロニーが常に付きまとう。人工知性の少女も自分が人工物だということを知っている。そして少女は言う、「何故私を作ったの?」と。だがこれは現実の親子の中でも交わされているであろう会話だ。子供であった頃なら親に問うたかもしれず、親であったなら子供に問われたことが在るかもしれない。何故自分は存在し、自分はここで何をするべきなのか。親であったならそれをどう伝えるべきなのか。生きる為に無くてはならない自己存在の確立と自己肯定の過程は、我々も体験したことがあるだろうし、時としてそれが困難を伴うものであることもご存知だろう。
またこの物語は”人はその生の中で何を選択して生きてゆくのか”というメッセージを量子的多世界解釈に託して描いている。例え無数の決定が多世界に渡って行われるのだとしても、我々がこの世界で決定できる事はたった一つしかない。人はその過程で「もし〜をしていたら、していなかったら」という逡巡や後悔を胸の中に抱く。成されなかった事、成すべきだった事の狭間で人の心は揺れ動く。だが我々は、現実に唯一つ決定した事の責任を背負って生き続けなければならない。その中でまた、明日を選択していかなければならない。それが苦渋に満ちたものであろうと、ただ一つ出来る行為はよりよい明日と自分の為に選択し続けることだけだからである。そしてイーガンはテクノロジーと生命がせめぎ合う中で人間存在とは何かを問おうとする。これが、グレッグ・イーガンのSFなのである。

◆TAP / グレッグ・イーガン


河出書房奇想コレクションの新刊はグレッグ・イーガンの日本オリジナル短編集『TAP』。先端テクノロジーや最新の科学知識を盛り込んだサイバーでイマジネイティヴな作品を次々に世に送り出し、現代最高のSF作家の一人なんて言われ方をしているイーガンだが、ここに収められている作品はブレイク以前の習作といった趣の作品が多く、どちらかというとファン向けの落ち穂拾い的短編集と思ったほうがよさそうだ。逆に言えばバラエティ重視のセレクトになっており、ファンにはイーガンの別の面を見ることが出来る短編集であるということもできる。

作品内容もまさにイーガンと思わせるようなハードSFというよりも、ホラーや奇妙な味といった作風のものが多い。そしてそれらの世界観も読後感もどことなく陰鬱、曖昧で所謂考え落ち的な歯切れの悪い結末を迎えるものが殆どだ。イーガンって実は…暗いヤツだったのか!?その為短篇としての完成度を目指したというよりも一つのアイディアをどのように展開できるのかという作家としての試作品的な作品が並ぶ結果となってしまったような気がする。

さて、ここに収められた作品全体を貫くテーマは「現実世界と自己との乖離」という言い方が出来るかもしれない。短篇「視覚」は事故を起こし脳手術を受けた男があたかも幽体離脱したかのような視覚を得る物語だし、「ユージーン」「要塞」は遺伝子操作による現代と未来との相克を描き、遺伝子エリートが常体の人類を凌駕した未来を予見する物語であり、「悪魔の移住」は研究室に閉じ込められた脳腫瘍の呟きであり、「散骨」は犯罪現場を追うばかりに現実から遊離する男の物語であり、「銀炎」はニュー・スピリチュアル・カルチャー思想に傾倒した者達が疫病による世界の新秩序を目論む物語であり、「自警団」は地下に幽閉され隔絶された”夢の中の悪魔”の物語であり、「森の奥」はナノマシンによる現実認識の変容を描いたものであり、そして表題作「TAP」は脳内インプラント"TAP"による独自の言語プロトコルを得た新人類と旧人類との確執を描いた作品なのだ。

このどれもが外挿された要因により変容した自己認識=アイデンティティが現実世界から浮き上がり、時に新現実を獲得するという物語なのではないか。イーガンは数々の既訳作品でも「アイデンティティの揺らぎ・変容」といったテーマにこだわり続けてきたが、この短編集でもそのスタンスは貫かれている。そしてこれらはどこか離人症と呼ばれる乖離性障害を連想させもする。しかしイーガンの描く自己認識の変容は、我々の持つアプリオリな知識を凌駕する圧倒的なテクノロジーの進化とそれに伴う世界の大規模なパラダイム・シフトを予兆したものに他ならない。未完成な作品の目立った『TAP』であったが、イーガンの持つテーマにブレは無かったと思う。