祈りの海 / グレッグ・イーガン

祈りの海 (ハヤカワ文庫SF)

祈りの海 (ハヤカワ文庫SF)

グレッグ・イーガンの日本における初期短編集。若干荒削りでありテーマが未消化な部分もあるが、自らの作風を模索する若き日の(?)イーガンの苦闘がうかがえ微笑ましい。では作品を紹介。
「貸金庫」はイーガンお得意の「アイデンティティとは何か」SF。生まれた時から常に他人の肉体に意識を転移させ続けられながら生きてきてしまった男の物語だが、相当突飛な粗筋なのにも関わらず、イーガンはその原因にきちんと脳科学的を基にしたオチをもってこようとするところがまた凄い。
「キューティ」は「自分で妊娠して子供を育ててみたい男性用の亜人間育成キット」を購入した男の話。これもイーガンが好む医療+グロSF。
「ぼくになることを」は人類が子供の頃から脳内に思考バックアップ装置「宝石」を取り付けらている、という『しあわせの理由』収録「移相夢」と同じ世界観の物語。そして本人が望んだときに脳は取り除かれ老化・劣化しない「宝石」が新たな脳となるのだ。思考バックアップ、データ移送による人格のコピーならびに不老不死というのはSFでは昔からあるシチュエーションだが、イーガンはそれがどのような医療技術によって行われ、そしてその"先進"医療が人々にどんな波紋をもたらすのかを描こうとする。医療の合理性に対する身体性の忌避、といった問題は現在の医療現場でもありえることで、そういった意味では現代的なテーマでもありうるのだ。
「繭」はあるバイオテク研究所爆破の調査を請け負った男が辿り着いた衝撃的な真実を描く。これなどは社会的ダーウィニズム主義者の空恐ろしい優生学的差別思想をテクノロジカルに現実化できることを暗示しており、これもまた『しあわせの理由』収録の「道徳的ウィルス学者」「チェルノブイリの聖母」に通じるイーガンの歪んだカルト蔓延への警鐘となっている。
「百光年ダイアリー」は人類全てが「未来の自分が書いた日記を読むことで未来を知ることになってしまった世界」を描く、イーガンには珍しい時間テーマSFだが、いつしかテーマは「記述されない現実は現実なのか」という哲学的な命題へと変わって行くのが面白い。
「誘拐」はバーチャルリアルに再現された映像を"誘拐"される、という一風変わったお話。しかしこれなどは「AIに人権はあるか」という後のテーマとも結びつきはしないか。
「放浪者の軌道」も変わったお話。何らかの理由で全人類の個々が持つイデオロギーメルトダウンを起こし、土地土地の"力場"によりそこに住む人々のイデオロギーが個人の意思を無視して確定させられてしまう、というややこしいお話。主人公たちは"力場"に感化されないように放浪を繰り返すが…という展開だが、これなどは「個人の意思」というものが実は集団的な無意識に左右される幻想に過ぎないのではないか、という暗喩にも取れる。
ミトコンドリア・イヴ」は人類の祖先を辿る事により己の系譜を探ろうという運動が度を越した熱狂へと繋がって行くというスラップスティックなブラック・コメディ。これなどは、ある種の疑似科学への冷笑ともとれるだろう。
「無限の暗殺者」は並行宇宙を無限に横断することにより現実に破滅的な"渦"を巻き起こす"ドリーマー"を抹殺する為にやはり無限の平行宇宙を追跡する"ハンター"の物語。起こりうる全ての事が起こっている平行宇宙を横断しながらも、にもかかわらずその中で自らが「決定」するということは何か、と問いかけるのがまたイーガンのアイデンティティ小説らしい。
「イェユーカ」はまたしても医療SF。指輪型万能医療装置により完全な健康を維持することが可能になった未来、その恩恵に与れない貧困国に赴く医師の物語。これも「血をわけた姉妹」に通じる医療産業の暗部と途上国の医療格差を描くが、医療に従事していた頃のイーガンが目の当たりにしたなにがしかのリアリティがここに存在するようにも思え、決してフィクションの枠だけに収まらない思いが込められているようにすら感じた。
「祈りの海」は遠未来の銀河のどこかに存在する人類殖民星が舞台だ。殖民星のテラフォーミングの歴史やそこに適応すべく改変された人類の身体機能、その身体性による不思議な習俗と文化、宗教など、あらゆるSF的奇想がてんこ盛りになった小説で、ヒューゴーローカス賞受賞作品でもあるが、自分にはエキゾチズムが強烈すぎてぴんとこなかったな。主題となるのは宗教的熱狂であり、SF的な光景を取り去るなら、そこに現れるのはやはり「人は何をよりどころにして生きるのか」というテーマなのだろう。