このクソみたいな人生〜映画『T2 トレインスポッティング』

■T2 トレインスポッティング (監督;ダニー・ボイル 2017年イギリス映画)

I.

「未来を選べ、人生を選べ」、物語で主人公がそう呟く『トレインスポッティング』だが、その言葉は以下のように締めくくられる。「俺は選ばないことを選んだ。人生ではなく他のものを選んだ。理由?理由なんかいらない。ヘロインがあれば誰も理由なんか必要ない」。即ちそれは「未来なんか知らねえし、人生なんてケツの穴だ」ということだ。それはかつてイングランドを席巻したパンクロック・バンド、セックス・ピストルズが『God Save The Qeen』でリフレインする「NO FUTURE」を地で行く人生だ。未来なんか、ない。

未来なんかない。クソど田舎の、クソ労働者階級の、クソ貧乏人に生まれた者に、選べる人生なんかない。選べるのは、せいぜい、同じクソ塗れのダチと、かっぱらいと、ヤクだけだ。クソに生まれた者は、一生這いずり回るしかないんだ。クソとして生まれ、クソとして生き、クソとして年老い、クソとして死ぬだけだ。それはつまり、「無意味な、クソ人生」ということだ。だがな。そもそも、人生になんて意味はねえんだ。だったら楽しく気楽にやろうじゃないか。未来のない、このクソ塗れの人生を。

II.

未来なんかなく、人生はクソだ。それが1996年に公開されたイギリス映画『トレインスポッティング』だった。だがしかし、そのようなテーマであったにもかかわらず、この物語には絶望や諦観の暗い陰りは無かった。それは、刹那に生きるチンピラたちの、限りなく未来を先伸ばすしかない【今】だけが、ヒリヒリと描かれる物語だった。彼らには、絶望している暇も、諦観している暇すらも無かった。彼らは、ドラッグによる刹那を、その最高の「今」を永遠に繫ぎ止める為に、ありとあらゆるものを犠牲にし続けなければならなかったからだ。

ドラッグ塗れの生活を送る彼らは、とりあえずドラッグとは無縁な日本人には、カンケ―ないものだったろうか。いや、我々だって、実は何かの依存症なのではないか。我々の「今」と「未来」は、それほど確実で、安定したものなのか。不安な「今」と、不確実な「未来」を払拭するために、何がしかのものに沈溺し、あるいは仮託し、そして信奉し、そして「今」と「未来」は確実なものである、と思い込もうとしているだけなのではないか。実は我々ですら、未来なんかなく、人生はクソなのではないか。

III.

そして、そんな彼らが、20年振りに、帰ってきた。帰ってきた、というよりも、単に生きながらえていた、というのが正確かもしれない。明日もなく、ドラッグ塗れだった連中が、あれから20年も生きながらえていたこと自体が、ある意味奇跡かもしれない。本当は、文字通りクソ塗れになって野たれ死んでいたって、おかしくなかった連中がだ。そうだ、人は、時として唐突に死ぬが、意外と結構、生きながらえてしまうものなのだ。

生き恥さらして生き延びてしまうのだ。未来はないとか、将来のことなんか考えたことも無いとか、人生なんかどうでもいいとか、なんとなくカッコいいことを言いながら、その未来も、将来も、その結果の人生も、否応なく、生き延びてしまった者の上に降りかかってくるのだ。そして、先延ばしし続けたあらゆる事柄が、その「未来」に、膨大なツケを要求してくるのだ。

20年後の彼らは、どうなっていたのか。いや、どうもなっていない。スパッドはドラッグ塗れで失敗した人生を、シックボーイは美人局まがいのセコイ裏稼業を、ベグビーに至ってはずーっと刑務所だ。では前作ラストで彼らから逃亡した主人公レントンは?ネタバレになるから書かないけれども、実のところレントンだって、華々しい未来に生きているわけではなかった。

20年経った連中の人生は、相変わらずクソのままだった。そりゃそうだ、未来のことを考えなかった人間に、未来なんかあるわけがない。人が灰から生まれ灰に返るように、クソはクソに生まれクソのままであり続けるだけだ。例え20年の歳月があろうと、連中はどん詰まったまま何も変わらなくて変えられなくて、惨めな人生は確固としてそこにあり、その中でただ一つ変わったのは、20年、無意味に年老いたということだけだ。そしてその20年は、連中にとって、単なる空虚だったんだ。

IV.

映画は、映画という娯楽は、そして映画というファンタジーは、時として、惨めで下らない人生を送るダメ人間の主人公に、一発逆転の契機を与え、そして主人公はその契機を逃さず、華々しい人生の転機を手に入れて結末を迎える。それは娯楽だからだ。それはファンタジーだからだ。観る者は、それらファンタジーに、一発逆転した人生の夢を見、心地よさを覚える。人生に一発逆転なんかそうそうあるわけがないけれども、せめて娯楽の中では夢を見たい。夢を見て、クソつまらない自分の人生が、それほど耐え難いものではないと思い込みたい。全てではないけれども、映画には、そんな機能がある。

だが、映画『トレインスポッティング』において、主演4人のチンピラどもは、一発逆転の夢を常に持ちつつ、したくてもできないか、やっても必ず失敗する。そしてこの『T2』においても、その法則は残酷なまでに不変だ。なぜならこれは、あらゆる運命から見捨てられた、筋金入りのダメ人間の物語だからだ。そしてそれは、一発逆転をどこかで夢見つつ、結局何も変わり映えしない人生を歩んでいるだけの現実の我々とたいした変わりはない。

将来のことを熟考し、その為に努力し、行動している人は沢山いるだろう。しかしそれでも選べるのは、平々凡々とした、ありきたりの人生だ。いや、平々凡々でも、ありきたりでもいいんだ。しかしそれは「選んだ人生」なんだろうか。その「選んだ」筈の、ありきたりの人生に、何一つ不安や不満がない人間がいるだろうか。熟考し、努力し、行動して手にいれたはずの人生が、なにかもやもやと画竜点睛を欠くものにしか思えないのは何故なんだろうか。それは、「悪くはない」が、「良くもない」人生でしかないからなのではないか。であれば、「人生を選べ」だなんて、タチの悪い冗談でしかないのではないか。

V.

あれから20年。クソでしかない人生を生きてきたクソどもは、「老い」だけを手に入れた。老いること、それは「死」を間近にすることだ。若い頃は、そりゃあ粋がって「いつ死んだって怖くねえ」ぐらいのことは言うかもしれない。「死」はまだまだ先の、非現実的なことなのかもしれない。だが、年老いて、知力も体力も衰え、訳の分からない体の不調を意識しだしてくる時に、「死」は「現実」のものとして目の前に立ちはだかる。前作で仲間から、故郷から逃走したレントンが、なぜわざわざ帰ってきたのか。それは冒頭で描かれる、心臓病による体の不調により、「死」を意識したからなのだろう。

未来があろうがなかろうが、「死」だけは誰にも公平に訪れる。刹那の興奮と快楽に沈溺していようと、どれだけ自分の人生を先延ばしし続けようと、「死」だけは確実に自らの身に訪れる。そして、その終局を意識した時に、自分の人生の全貌が、自分が何をして何をしなかったかが、目の前に詳らかになる。レントンに限らず、主人公たちは皆、年老いることによって、自分の無様な人生と、ようやく対峙することになる。そして、そんな無様なだけでしかなかった自分の人生に、年老いることにより、落とし所を見つけられるか見つけられないか、それがこの『T2』という物語だったのだ。

物語では、クライマックスにおいて、その「落とし所」を、見つけられる者も、見つけられない者もいる。だが、人生が遣る瀬無く、そして、その遣る瀬無い人生を生きてきてしまったことに、誰もが変わりない。その遣る瀬無さが、映画を観ていたオレの胸に、まるでブーメランのように、深々と突き刺さってきたんだよ。人生を選べたか、選べなかったか、実はそんなことは重要じゃないんだ。ただ、何をしたとしても、何をしなかったとしても、それでもどうしても心に湧き起らざるを得ない遣る瀬無さが、オレには、堪らなく痛かったんだよ。


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T2 トレインスポッティング -オリジナル・サウンド・トラック

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