■SANJU/サンジュ (監督:ラージクマール・ヒラニ 2018年インド映画)
(この記事は2018年12月22日に更新した記事「『きっと、うまくいく』『PK』の監督ラージクマール・ヒラニによる新作伝記映画『Sanju』」を日本公開に合わせ内容を少々変更してお送りしています)
■インド映画界の巨匠ラージクマール・ヒラニ監督最新作
今日は傑作映画『きっと、うまくいく』『PK』で日本でも広く知られるインド映画監督ラージクマール・ヒラニの最新作『SANJU/サンジュ』を紹介したいと思います。この作品は2018年にインドで公開されたのですが、ボリウッド作品としてはこの年最大のヒットを記録しているんですね(インド映画全般ではタミル映画『2.0』に次いで第2位)。物語は現在も活躍する実在のインド映画スター、サンジャイ・ダットのこれまでの人生を振り返ったものとなっています。
とはいえ、日本の映画ファンの方にとっては「サンジャイ・ダットって誰?」と思われるに違いありません。日本で紹介されている彼の出演映画作品は『PK』『アラジン 不思議なランプと魔人リングマスター』『レッド・マウンテン』『アルターフ -復讐の名のもとに-』などがありますが、これも『PK』以外はコアなインド映画ファンじゃないと知らない作品ばかりでしょう。
■サンジュ/サンジャイ・ダットって誰?
実はこのサンジャイ、インド本国ではいろんな意味で有名な俳優なんです。父母がインドでは知らない者のいない映画俳優のスニール・ダット、女優のナルギスという映画大スター一家の生まれであり、本人も俳優として様々な作品に出演しています。ちょっと怖い顔をしているので、自分が今まで観た作品の中では悪役ぽい役が多い気がします。特に映画『Agneepath』の悪役演技は「インドにはこんな怖い俳優がいるのか!?」と啞然とした記憶があります。日本の俳優で言うなら若山富三郎と原節子との間に生まれた石橋蓮司って感じかな?
しかし彼が真に「有名」なのはそこだけではありません。なんと彼はドラッグ、銃の不法所持、テロ・破壊活動の容疑により有罪判決を受け5年の禁固刑に処せられた、という過去を持っているんですね。サンジャイを知らない方なら「いったいどんな悪人なんだ!?」と思ってしまうでしょう。しかし映画は、彼のそんなスキャンダラスな側面のみを描くのではなく、そのような反社会性に走ってしまった彼の孤独な魂に寄り添うかのように作られた作品なんです。だって、なんたってラージクマール・ヒラニ監督ですよ!?
■破滅へとひた走る放蕩生活
物語はこのスキャンダル真っ盛りの頃、サンジャイの妻マーニヤター(ディヤー・ミルザー)が夫の真の姿を知ってもらうべく作家のウィニー(アヌシュカー・シャルマー)に彼の伝記を執筆依頼するところから始まります。そしてサンジャイ(ランビール・カプール)が語り始めたのは、高名な俳優である父スニール・ダット(パレーシュ・ラワル)からの期待に圧殺されかけていた青春時代、さらに、インドで最も有名な女優である母ナルギス(マニーシャー・コイララ)が、死に至る病魔に襲われたことへの深い悲しみでした。
インド映画では「強大なる父権との確執・対立」というモチーフが非常によく描かれます。カラン・ジョーハル監督による『家族の四季 -愛すれど遠く離れて-』などはその最たるものでしょう。また、恋人の父親に認めてもらうために血みどろの戦いにまで発展するアディティヤ・チョープラー監督作『Dilwale Dulhania Le Jayenge』はインドでは超ロングランの記録を持つ大有名作品です。家族主義を重んじるインドでは父権とは絶対のものであり、そこから生まれる確執・対立を通して、それとどう折り合いをつけてゆくのかが大きなテーマとして取り扱われます。
今作『SANJU/サンジュ』において、サンジャイの父であるスニール・ダットの影はあまりにも巨大です。映画人としても家庭人としてもあまりにも完璧な父と息子サンジャイとの間には確執も対立もありません。サンジャイは父の完璧さに己の卑小さばかりを見出し、その期待の大きさに立ち向かうことも出来ず、ただただひたすら萎縮してゆくのです。そしてその重圧から逃れるために彼が手を出したのがアルコールとドラッグでした。
彼の放蕩生活は止まる所を知りません。経済的に恵まれた家庭であったからこそ逆に歯止めを利かせることもできず、ずぶずぶと爛れたような日々を過ごすのです。その中で恋人ルビー(ソーナム・カプール)との出会いや親友のカムレーシュ(ヴィッキー・コウシャル)の手助けがありこそはすれ、破滅的な性向は決して正されず、遂に彼は己の男らしさを肯定する為に銃器に手を出してしまいます。
■青春期の生き難さを描く普遍的な青春ドラマ
サンジャイは弱い男だったのでしょうか。クズ男だったのでしょうか。自分にはそう思えません。彼は「父あっての自分」というアイデンティティの脆弱さからなんとしても逃れたかった。「自分」が「自分」でありたかった。彼がその放蕩生活の中で否定し抹殺したかったのは「自分では無い自分」の姿だった。彼のその生活はあまりにも極端でしたが、父親のコントロール下にある「庇護された自己(子供)」から「一個の確立した自己(大人)」へと成長するための途方も無い自己否定、そのあまりにも長い道のりを描いたのがこの作品だったのではないでしょうか。
もうひとつ、これらサンジャイの乱れきった生活の有様から見えてくるのは、これが欧米映画なら意外とよく描かれる光景だな、ということです。『ドラッグストア・カウボーイ』や『トレイン・スポッティング』といった作品は、彼らをドラッグに走らせるものがインドのような「強力な父権」ではなく、もっと漠然とした生活や社会への不安であったりもしますが、こういった「青年期の生き難さ」を描いたものとして同等であるともいえるのです。そういった点で映画『SANJU/サンジュ』はこれら欧米映画と比べても全く遜色の無い「青春の彷徨」を描ききった作品だといえるでしょう。
とはいえ、こういった「青春の彷徨」を描きながらも、物語は決して暗かったり遣る瀬無いもので終始したりはしません。実際のサンジャイ・ダットが現在見事映画界に復帰し、再び華々しいキャリアを復活させているという結末が既に明らかな以上、この物語には明るい未来(現在)が待っていることは誰もが知ることです。「青年期の生き難さ」を経た「青春の彷徨」が辿り着く希望に満ちた「今」。未来は明るいほうがいいし、そして多くのインド映画は、いつも希望の香りに満ちているのです。