われら /エヴゲーニイ・ザミャーチン
いまから約1000年後、地球全土を支配下に収めた“単一国”では、食事から性行為まで、各人の行動はすべて“時間タブレット”により合理的に管理されている。その国家的偉業となる宇宙船“インテグラル”の建造技師д‐503は、古代の風習に傾倒する女I‐330に執拗に誘惑され…。
ジョージ・オーウェルの『1984年』、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』と、古典ディストピア小説を最近立て続けに読んだので、「ついでに古典ディストピア小説として名高いあの小説も読んでおこうか」と思ったのである。”あの小説”とは1920年代にロシア作家エヴゲーニイ・ザミャーチンによって書かれた『われら』というタイトルの長編小説だ。この作品は『1984年』や『すばらしい新世界』が執筆される以前に書かれたまさに古典と呼べるものなのだ。なお翻訳は複数出ているが光文社版を読んだ。
物語は今から約1000年後、「単一国」と呼ばれる巨大国家によって統一された世界が舞台となる。そこで人々は番号で呼ばれ、その生活は国家の監視下のもと徹底的に管理され、個人の意思や判断を剥奪された一個の歯車として生かされていた。そして人々はそんな生活になんら疑問も持たず国家に忠誠を誓っていた。主人公д‐503もそんな一人だったが、ある日I‐330という名の女と知り合い、禁じられている「恋愛感情」を持ってしまう。そしてそのI‐330から、彼女が革命を企てている組織の一員であることを知らされる。
全体主義!中央集権!監視社会!思考洗脳!敵性弾圧!……とまあ「ディストピア小説」のお定まりとも言えるモチーフでまとめられた小説で、実のところ今読んでも驚きを感じる部分のない、陳腐にすら感じさせる物語なのだが、しかしここで考慮すべきなのは、この物語が、1920年代のロシアで書かれたという事である。1920年代ロシアと言うとロシア革命によりソビエト連邦が樹立したばかりのレーニン体制時期であり、スターリニズムよる陰惨な弾圧はまだ未来の話だった。すなわちまだ共産主義社会に薔薇色の妄想があった時代に、その未来に横たわるディストピアを看過した物語だとも言えるのだ。
とはいえ、実際にこの物語を読んで思ったのは、そういった暗鬱な未来予測の物語というよりも、むしろ産業革命以降の社会が生み出してしまった人間疎外の在り方と、そこから逃走し古典的で原初的な人間性の復権を成そうとする者を描こうとしたものなのではないかということだ。それは主人公を国家転覆に加担させようとした女I‐330の、「豊かな感情を持つ古代人類」への傾倒からうかがう事が出来る。そもそも主人公がそれまで安寧と過ごした全体主義社会から逸脱したのは「恋愛」という禁じられた感情、それも非常に個人的で非合理的な感情によるものだ。
物語は結局ペシミスティックな結末を迎える事にはなるが、それでもこの作品が、体制や思想主義を揶揄したものではなく、あくまで「人間性の復権」を中心的なテーマとしたものであると自分には思える。そういった意味で、実は「ディストピア小説」というよりも、当時既に存在したのであろう人間疎外へと陥る社会に対する不安とその脱却を描こうとしたのがこの作品だったのではないだろうか。まあそういった意味では「ディストピア小説」を読むのであれば『1984年』や『すばらしい新世界』あたりのほうがフィクションとして楽しめると言えば楽しめるのだが。