■アポロンの地獄 (監督:ピエロ・パオロ・パゾリーニ 1967年イタリア・モロッコ映画)
「パゾリーニってなんだか怖い映画監督だから、映画に興味持ったり近づいたりしない方がいいな」と思ったのは随分昔、中学生頃の事である。当時から映画好きだったオレは「ロードショー」や「スクリーン」といった映画雑誌を購読していたが、その雑誌の中で新作映画として紹介されたパゾリーニの『ソドムの市』のスチール写真があまりに異様だったのだ。他にも、何かのTV番組で紹介されていたパゾリーニの『アラビアンナイト』の映像の一部が、卑猥過ぎて気持ちが悪かったというのもあった。
そんな訳でイタリアの映画監督ピエロ・パオロ・パゾリーニには全く縁の無いまま何の支障もなくこの年まで生き永らえてきたが、この間オムニバス映画作品『ロゴパグ』というのを観て、その中にあったパゾリーニの作品『リコッタ』が、そこそこに面白かったのだ。あれ?これまでずっと抱いていたイメージと違うな?と思えたのだ。そりゃそうだ。10代の頃の感性とズルムケなオッサンである今の感性には大きな隔たりがあるに決まってるしな。
こうしてパゾリーニアレルギーから解放されたオレはパゾリーニ作品をちょっと観てやろうじゃないか、と思ったのである。作品はどれでもよかったが、とりあえず『ソドムの市』は難易度が高そうなので止めて、なんとなくおどろおどろしいタイトルである『アポロンの地獄』を選んでみた。しかもわざわざブルーレイを購入しての視聴である。
『アポロンの地獄』は古代ギリシアの三大悲劇詩人の一人、ソポクレスによる悲劇『オイディプス王』を原作としている。そう、ジークムント・フロイトの提唱した「エディプス・コンプレックス」という精神分析用語でも有名なあの「オイディプス」である。「エディプス・コンプレックス」は母親を手に入れようと思い父親に対抗心を抱くという、幼児期の抑圧心理を指すが、原典である『オイディプス王』も運命のいたずらにより知らずに父を殺し母とまぐわってしまうオイディプスの姿を描く悲劇なのだ。
とまあその程度の予備知識で観始めたのであるが、結論から言うなら、びっくりするほど素晴らしかった。単なる変態インテリ野郎だと思っていたパゾリーニが、これほどまでに美しく力強い映像を表出させる監督だとは思ってもみなかった。
まず冒頭、いきなり現代のイタリアを舞台にして物語が始まるものだからここでまず驚かされる。現代、とはいえ数十年前のイタリアなのだが、ここでまず生まれたばかりの子に対する父親の憎しみが描かれる。「オイディプス」の物語の発端であり胎芽ということなのだろう。そしてこの”現代のイタリア”は終幕でも登場することになる。
そして物語は遙か太古へと飛ぶ。いよいよオイディプス王の悲劇の始まりと言うわけだ。するとどうだ、古代ギリシアを舞台とした物語であるはずなのに、目の前に広がる情景は古代ギリシアとはどうにも掛け離れた、もっと土俗的で非文明的な世界ではないか。自然の情景にしても建造物にしてもそこに住まう人々の衣装にしても彼らの習俗にしても、「古代ギリシア」を思わすものは一切ない。オレの目にはそれは、大昔に滅び去った南米の王国や、アフリカの忘れ去られた文明のひとつのようにすら映った。それはひたすら土臭く泥臭く、非西洋的なのだ。
調べるとこの作品は、トルコで撮影されたものだという。トルコの荒野とそこに残された遺跡で撮影したのだという。衣装は古代トルコにあっただろうものを模したのだという。ただしそれは古代ギリシアを古代トルコに移し変えたということではなく、非西洋的なロケーションを選んだ結果としての「誰も知らない、架空のどこかの土地」ということなのだろう。そこに暮らす人々の習俗には黒い呪術の臭いがし、彼らが信じるであろう神も死と暴力の染み付いたより原始的な存在なのだ。
そしてオレは、これら全ての情景に、とてつもなく、感銘を受けたのだ。人間の始原に存在したであろうプリミティブな映像の在り方に、非常に心奪われたのだ。それらは荒々しくあると同時に、美しく力強く、胸にざっくり刺さってくる。ある意味人類の持つ原風景とも呼べる情景ではないのかと思わされたのだ。
パゾリーニがなぜこのようなロケーションと映像を選んだのか、パゾリーニの長編作品をはじめて観るオレには分からない。後知恵で言うなら「パゾリーニの自然主義」ということらしいのだが、なぜ自然主義なのかオレには説明できない。しかしただひとつ言える事は、パゾリーニという監督が、このような荒々しくもまた美しい映像を表出させられる高い芸術性を持った監督だったと言うことだけだ。そしてオレはそんなパゾリーニの作品に、たちまち虜となってしまった。
これら始原の風景の中で、「オイディプス王の悲劇」は物語られる。その内容はよく知られる「エディプスコンプレックス」の物語そのままで、それに対してあれこれ注釈するつもりはない。しかし、運命の悪戯により王である父を殺し母を妻として娶ってしまうというこの悲劇は、強い日差しに焼き付いた乾ききった情景の中で描かれるがゆえに、悲劇であるにもかかわらずどこまでも乾ききった情感の在り方を表出させることとなる。そこからは、運命というものにも、その悲劇性にも、達観めいたものを感じざるを得ないのだ。
そして「オイディプス王の悲劇」は終盤、また現代へと還ってくる。そこでは冒頭で赤ん坊だった男の成人した姿が登場することになる。この男が、「オイディプス王の悲劇」そのままの、父と母との狭間における葛藤に引き裂かれた男であろうことは簡単に想像できる。そしてこの男はパゾリーニそのものなのだという。パゾリーニもまた父を憎み母を溺愛した男なのだという。その壮絶な葛藤の中で、パゾリーニは心の中の多くのものを喪いながら、映画監督という自身へ辿り着いたのだろう。しかしそういった自己言及の在り方は副次的なものなのではないか。それよりもこの作品に存在するのは、そういった運命への達観であり、その果ての、悲劇を悲劇とすら感じない乾ききった感情の在り方ではないかと思えたのだ。