パゾリーニ監督作『奇跡の丘』を観た

奇跡の丘 (監督:ピエル・パオロ・パゾリーニ 1964年イタリア・フランス映画)

前回の『ソドムの市』に引き続きもう1作パゾリーニの作品を観ることにしてみた。タイトルは『奇跡の丘』、1964年に公開されたパゾリーニの長編第3作目の作品となる。物語は新約聖書の冒頭を飾る「マタイによる福音書」を基にキリストの生涯を描いたもので、『ソドムの市』とはある意味真逆の内容といえるかもしれない。しかし『ソドムの市』のひとつの特徴である「美しい」映画である部分に於いてしっかりと共通している。

キリストの生涯を映像化した作品は『ベン・ハー』や『ジーザス・クライスト・スーパースター』、『最後の誘惑』など幾多もあるが、この『奇跡の丘』が特徴的なのは聖書におけるキリスト像を直球ともいえる正攻法で描いていることだ。しかしこの作品は決して「正典に忠実なだけの(退屈な)映画作品」ではない。パゾリーニがこの作品に持ち込んだのは、全てをありのまま描く自然主義と、徹底的にストイックな作品構成である。

映画では余計なセットや煌びやかな美術を持ち込むことなく、イタリア各地の遺跡や荒野をそのまま作品舞台として使っている。それにより荒々しい原初の自然と歴史の重み・軋みを感じさせる建造物とが剥き出しのまま提示され、作品から作り物めいたイメージを払拭しているのだ。また、ここで描かれるキリスト像ぶっきらぼうなまでに教義を呟き続ける男として登場し、その教義も「慈愛と寛容」ではなく剣持て成す「改革者」あるいは「復讐者」としてのキリスト像を浮かび上がらせるのである。

情感を排した物語展開は手持ちカメラの多様も相まってドキュメンタリータッチとなり、それにより「個としての人間イエス・キリスト」へと肉薄してゆく。その姿はどこまでも孤独であり、痛々しい心痛さえ感じさせる。それは洗礼者ヨハネの死への憤怒と絶望*1磔刑に処された時の「神に見捨てられた」心情に最も顕著だ。そこからパゾリーニが描こうとしたのは、神格化されたキリスト像ではなく、改めて現代的な孤独に立ち返った場所から見えるキリスト像だったのではないだろうか。

*1:知った風に書いているがヘロデ王に斬首された洗礼者ヨハネとキリストの弟子である使徒ヨハネが別人だという事をこの映画を観て初めて知った。