パゾリーニ監督の問題作『ソドムの市』を観た

ソドムの市 (監督:ピエル・パオロ・パゾリーニ 1975年イタリア・フランス映画)

1975年に謎の死を遂げたイタリアの映画監督ピエル・パオロ・パゾリーニの、その死の直後に公開された問題作『ソドムの市』である。マルキ・ド・サドの『ソドム百二十日 あるいは淫蕩学校』を原作とし、10代少年少女の監禁と精神的肉体的拷問、肛門性交と強姦と性的虐待、倒錯と糞尿飲食といった過激な表現に満ち溢れ、発表当時ヨーロッパ各国で上映禁止となり、さらに監督故殺の原因になったともみられている恐るべき作品だ。

その構成はダンテの 『神曲』 の構成を借りており、「地獄の門」「変態地獄」「糞尿地獄」「血の地獄」の4つの章から成る*1。舞台はナチス傀儡政権下のイタリアの街ソロ。ここでファシスト権力者たちが男女各9人の少年少女を集め秘密の館に監禁する。そこで権力者たちはその邪淫の欲するままに少年少女らを支配し凌辱し変態行為を強制し、さらに虫けらのように虐殺し続けていた。

実は公開時から凶悪なスキャンダラスに満ちたその内容のことは伝え知っており、個人的には観ることの憚られる作品として永らく無視し続けていたが、ある機会に同監督作品『アポロンの地獄』を鑑賞した際、その類稀なる才能の発露に驚き、これは避けて通れない作品なのだなと観念してつい最近観ることとなった。しかし実際に観てみると、確かに嫌悪感すら催させる露悪性こそ存在するのは間違いないとしても、強烈な含意の込められた優れた作品であると感じた。

まず非道にして下劣な権力構造というアレゴリーが分かり易いぐらいしっかりしている。その権力構造とは物語背景となるイタリアのファシスト傀儡政権であり、その邪悪なる暴力性と腐り切った退廃性をグラン・ギニョールの形で暴き出したのがこの物語なのだ。同時にそれはあらゆる専横なる権力構造をも暗喩するのだろう。作品において徹底的に描かれる下劣でアンモラルな描写は、それは権力構造それ自体の下劣さとアンモラルさを浮き彫りにしているのだ。

なにより驚かされたのは喧伝される淫猥と汚辱のイメージとは裏腹の美しく格調高い撮影と美術と映像だ。イタリアの風土に根ざす建築物、調度、美術品、服飾の美しさのみならず、シンメトリーを多用した撮影、静物のように配された登場人物のレイアウトなど、監督の持てる美意識がそこここに発露する、ある意味「美しい」映画でもあるのだ。そもそもパゾリーニという監督は、こういった「美しい」映画を撮っていた監督でもあった。

全体的に引きの撮影で撮られている映像は、これは行われている非道な行為そのものを嗜虐的なポルノグラフィとして見せつける事が映画の目的なのではなく、そういった行為が行われる事それ自体の非道さを描こうとするのが映画の目的であることを明示している。何もかもがあからさまに下劣に描かれているように見えて、描くべきものと描く必要のないものがきっちりと計算され区分けされているのだ。

そしてタブーを全く意に介さず切り込んで行く挑戦的で先鋭な感性。相当に過激でセンセーショナルな作品ではあるが、むしろここまで突き詰めなければ描ききれないものがあったという事なのだ。そこにはパゾリーニ監督自身に生来備わるエキセントリックな表現哲学、政治思想があったればこそだったのではないか。章立てで段階的に狂気と異常さを増して行く構成も実に引き締まっている。問題作だが名作なのも確かだ。

それにしてもよくこんな作品が作れたな、と確かに感嘆させられる。発表当時は上映禁止騒動や監督の謎の死も相まってキワモノめいた異様さばかりクローズアップされたようだが、観る者を選ぶ作品ではあるにせよ、むしろ今だからこそ冷静に評価されるべき作品なのではないかと思えた。