大人になるということ、家族であるということ。/映画『シャザム!』

■シャザム! (監督: デヴィッド・F・サンドバーグ 2019年アメリカ映画)

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■DCヒーロー『シャザム!』見参!

アメコミヒーロー映画『シャザム!』、実は最初あまり観る気がしなかった。

オチャラケ気味の予告編があまりにも軽い。軽い。「子供が大人の体のヒーローになって云々」という物語に興味が湧かない。湧かない。当のヒーロー、シャザムのコスチュームがダサい。ダサい。そしてその顔があまりにおマヌケだ。おマヌケだ。しかもバカな話だがオレはこの作品をマーベル作品だと勘違いしてて、「マーベルはこないだ『キャプテン・マーベル』観たから『エンドゲーム』までいらないよう」とまで思っていた。

しかしだ。オレが最も信頼する映画ブロガーの一人、Taiyakiさんの『シャザム!』評を読んで「ううむこりゃ観に行かなきゃあかんかのう」と思ったのだ。同時に、マーベルじゃなくてDCだったということをやっと知り、「DCだったら何かやらかしてくれるんじゃないか」と思えたのだ。

そして劇場で観た『シャザム!』は、予告編の軽さや陳腐に思えるテーマや主人公の見た目のダサおマヌケさといったイメージを、あっという間に吹き飛ばした。物語進行につれ次々と予想を覆す展開に、オレは「あわわあわわ」と驚愕しながら観ていた。これは、傑作じゃないか。王道であると同時に、深いアレゴリーに満ちた作品じゃないか。

■「力が欲しいか?」

『シャザム!』は主人公ビリーがとある大魔術使いによって「選ばれし者」となるお話だ。この辺の流れはTwitterでたまに見かける「力が欲しいか?」ネタを思い出させてちょっと可笑しい。スーパーヒーロー、シャザムに変身することができるようになったビリーは、最初その強大な「力」を自己満足や自己顕示欲の為に使う。「すっげー俺サイコーに強いじゃん!あんなこともこんなこともできんじゃん!みんな俺に注目じゃん!ついでに小銭も稼げてウハウハじゃん!」。スーパーパワーを獲得したビリーはその力を「透明人間になれたら……まず女湯を覗く!」程度の下世話なものにしか使わない。まあだって、中身は子供だからさ。子供が思うようなことしかやらないわけだよ。

しかしそんな彼の前に凶悪な魔法生命の憑依したヴィラン、Dr.シヴァナが現れ、彼のスーパーパワーを奪おうとする。それにより、ビリーの家族が(里子なんでいわゆる疑似家族ではあるが)危機にさらされ、ここでやっと自らの真の使命に気付くのだ。

■大人になるということ

『シャザム!』の物語に見られる「子供が大人の肉体を獲得し、その大人の肉体が持つ力を行使する」というのはどういうことか?

映画やコミックで活躍する多くのスーパーヒーローは殆どが最初から大人だ。スパイダーマンは少年/青年だが、少なくとも「子供」ではなく、いわゆる「若者」で、コスチュームを着けても「若者」のままのスーパーヒーローだ。バットボーイは「子供」だが、これはずっと「子供」のままだ。

実は「子供が大人の肉体を獲得する」というヒーロージャンルがひとつ存在する。それは「ロボットSF作品」だ。日本のロボットSFは、少年/青年が強大な力を持つ鋼鉄の巨大ロボに乗り込み、あるいは操作し、悪を倒すという形でその力を行使する。さてここで「鋼鉄の巨大ロボ」とはなんなのか?それは、「大きく、強い、大人の肉体」というメタファーなのだ。すなわち多くの「ロボットSF作品」は、「子供が大人の肉体を獲得する」という【願望】を視覚化したジャンルである、という事が出来るのだ。

大人になりたい。大人になって、その強さや大きさによって、自分の成したかったことを成したい。そう【願望】するのは、「自分の成したいこと」が、肉体的にも社会的にも非力な子供のままではどうにも無理だからである。

こうして「大人の肉体」を獲得したビリーは、あらゆる「大人だったらできること」を試して悦に入る。確かに人間の大人であってもビームを出したり空を飛んだりは出来ないが、これは「大人というものが持つ万能感」のメタファーであると捉えればいい。

しかし、「大人になる」ということは、単に「大きくて強くなる」だけなのだろうか?その「大きさと強さ」を使って好き放題をすることなのだろうか?そうではないだろう。そしてビリーは「凶悪なヴィラン」と対峙することで、「自分の力は何の為に使えばいいのか」を【認識】する。つまり、「大人であるということは、大人としての【責任】を持ち、それを果たすことでもある」ということだ。

即ち、映画『シャザム!』は、「子供がスーパーヒーローになっちゃう!?」という奇想天外な物語の裏に、子供の「大人になりたい」という【願望】を描き、さらに、「では大人になったら何をしなければいけないのか?」という大人の【責任】【認識】するというテーマを孕んだ物語だったのである。いわゆる成長譚というジャンルの物語は数あるが、多くは内面的成長を描いたものであり、しかし『シャザム!』では肉体的成長に伴う精神的成長を描き、それを空想物語らしく詳らかに視覚化している部分で画期的であるといえるのだ。

■家族の物語

そしてこの『シャザム!』は【家族についての物語】でもある。いや、【家族についての物語】など世に数多溢れ返っており、ただそれだけなら特筆すべきものではない。しかし映画『シャザム!』においては、まず主人公ビリーは孤児であり、彼が里子という形である家族の元に預けられる。しかしその家庭は「元里子」の夫婦が、多くの里子を家族として抱えた家庭だったのである。即ち、この家庭は誰も血が繋がっておらず、さらに孤児ないし後見人の存在しない孤独な存在たちの集まりだったということだ。しかも、夫婦も、預けられた子供たちも、それぞれに人種が違うのである。

つまり『シャザム!』の物語では、従来的な【家族】という定義が揺らぎ消滅し、さらに再構築されているのだ。ここでは「血の繋がり」の持つ気安さや連帯感、その逆の逃れられないしがらみが一切存在しない。ビリーの預けられた家庭は個々に他人でしかなく、彼らを繋ぎとめるものは【信頼】【愛】だけなのである。

しかし「血の繋がった」家族であるならそれは必然として【信頼】と【愛】が存在するのが【自明】だろうか?いわゆる「家族主義」の弊害はこの無批判であらかじめ当為として受け入れなければならない【自明】の部分にある。そして「家族主義」は「排外主義」に容易くシフトする。どこぞの国で国策に謳われる「家族主義」の危うさはここにある。このどこぞの国の国策では「家族とみなされない」立場にあるものは容易く否定の対象になる。

『シャザム!』の物語ではこの【自明】を否定する。そして【信頼】と【愛】のみで再構築された新しい【家族】を提示する。しかし、聞こえはいいけれども、無批判で楽に受け入れることのできる【自明】を手放し、新たな家族のあり方を生み出そうとすることには、実は多くの労苦が存在するのだ。それは【信頼】や【愛】が容易く生み出されるものでは決してないからだ。そして『シャザム!』の物語は、「僕は、僕らは、どうしたら【信頼】と【愛】を手に入れる事が出来るのだろう?」と模索する。その解法にはまたもや奇想天外な展開が待っているのだが、これは観てのお楽しみという事にしよう。

そして、血の繋がらない、人種も性別も年齢も多種多様な人々が、【信頼】と【愛】を生み出そうと尽力することの重要さは、それは実は、【家族】という枠組みだけのことではなく、この社会と、世界についても言える事なのだ。それは決して容易くない、多くの労苦が存在することだけれども、『シャザム!』の物語は、小さな「新たな家族」の在り方を提示することにより、その大きな理想を提言してゆくのだ。


映画『シャザム!』60秒予告【HD】2019年4月19日(金)公開

シャザム! :魔法の守護者(THE NEW 52! ) (DC)

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