"カルマ"についての物語〜映画『スプリット』

■スプリット (監督:M・ナイト・シャマラン 2017年アメリカ映画)


M・ナイト・シャマラン監督による映画『スプリット』は多重人格!少女誘拐監禁!というサイコ・ホラーだ。主人公である多重人格者をジェームズ・マカヴォイが演じるんだけど、まさか車椅子に乗ってプロフェッサーXの人格まで演じちゃうとはさすが予想を覆すシャマラン映画!(・・・・・・というのは真っ赤な嘘だからな!)
シャマラン映画って色眼鏡つきで語られることが多く、それに影響されオレも食わず嫌いしていたのだが、前作『ヴィジット』(2015)が驚くほど面白く、その後DVDで観た『ハプニング』(2008)がこれまた「嘘だろ?」と思うほど快作だったので、「もうシャマラン映画最高ってことでいいんじゃないか!?」とオレは考えを改めたのだ。
だから今作『スプリット』も、シャマラン映画ということで注目していたのだが、内容が「多重人格」で「少女誘拐監禁」だというではないか。・・・・・・う〜ん、どっちもサスペンスやホラー映画じゃさんざん使われてきたありふれたテーマじゃないか、なんだか食指が動かんなあ、とは思ったのだ。しかしまあそこはシャマラン、なにか変なことをやってくれるに違いない。そう思って劇場に足を運んでみたが、すると確かに、シャマランらしい"定石外し"があちこちに見られる映画として実に楽しむことが出来た。
粗筋はなにしろ多重人格者による3人の少女の誘拐監禁を描く物語だ。ネタバレを避けるため細かい部分には触れないが、この映画における「シャマランらしい"定石外し"」とはどんな部分だったのか。まず設定や状況から予想される"実に(ありふれた・凡百の)ホラー的な"展開に流れていかない、という部分だ。それは精神および肉体への陰惨な虐待や凌辱、徹底的なバイオレンスと血!肉体破壊!屠殺!といったようなものである。トラック一杯分の鮮血が奔流の如く流れ畜肉工場のように死体がそちこちに転がる、といったものではまるでないのだ。『スプリット』批判の多くはそういった(ありふれた・凡百の)ものを期待して観に行き肩透かしを食らったということなのだろう。しかしちょっと待っていただきたい、これはトビー・フーパ―ではなくシャマラン映画なのだ。
シャマランは定石を描かない。ここでポイントとなるのは犯人が「多重人格者」ということで、つまり犯人の中に誘拐の実行犯と協力者、誘拐の是非よりも実行犯が怖くて口を出せない者、さらに傍観者、そして誘拐のことすら知らない人間がいる、ということになっているのだ。物語においてジェームズ・マカヴォイが演じる"ケビン"が様々な人格を表出させだすところから、単純な(そしてありふれた・凡百の)少女誘拐監禁ドラマは、奇怪な方向へと乱調するのである。その奇怪さは、「ちょっと変」でもある。なぜなら「定石を外すことで別個の新たなサスペンスを生もう」とすらしていないからである。この作品は十分サスペンスフルではあるが、シャマランは、それ自体を重視していないのだ。シャマランが描きたかったものはもっと別のものだからだ。
この物語は、サイコ・ホラーであり、サスペンス・スリラーである。だが、こういった題材を扱う他の作品とは展開が微妙に異なることになり、ここでもやはりシャマランらしい"定石外し"が持ち込まれるのだ。通常、これらサスペンス作品には、犯人VS被害者の対決ないし被害者が運と知力でもって状況から脱出する様が描かれる。大まかに見ればこの『スプリット』も同様の構図の中にある。だが、そのクライマックスまで観てゆくなら、犯人または被害者による"暴力"や"相手を出し抜く判断"といった"力の対決"でもって物語を結末に繋げていないのだ。
同じ監禁モノで『10クローバーフィールドレーン』という映画があったが、あれが監禁-懐柔-腹の読み合い騙し合い-暴力-破壊-脱出というある種ストレートな展開だったのと比べると『スプリット』の展開はもっと奇妙だ。それはどこか、「運命」や「宿命」といったものに近い。それは拉致監禁された少女の一人ケイシー(アニャ・テイラー=ジョイ)の生い立ちに関わっている。細かくは触れられないが、この作品と他の同テーマの作品が違うのは、「(結果がどうであれ)自らの"力"で状況を打破しようとすること」と「あらかじめ定められた"運命"のように物語の最後の1ピースがはめられること」の違いであり、『スプリット』は当然後者である。
「運命」とは個人の"力"など及ぶことの無い部分で巡る巨大な車輪の如きもののことである。それは自らの生における行為の結果として蓄積される「カルマ」である。監督M・ナイト・シャマランはインド系アメリカ人であり、両親はヒンドゥー教ではあったが彼自身はアメリカでカトリック系の教育を受けていたという。そんなシャマランではあるが、彼の中に、両親譲りのヒンドゥー的な要素が幾ばくかなりとも存在しているのではないか、とオレは彼の映画を観ながらよく思う。ハリウッド映画ずれした観客からシャマランが誤解を受けやすいのは、彼の中に非欧米的な感性が存在しているからだとは言えないだろうか。
そして映画『スプリット』は、ケイシーとケビンとの、その「カルマ」を、"自らの生における行為の結果としての運命"を描こうとした、実にインド的な物語だったのではないか、とオレは思うのだ。