■ストレイト・アウタ・コンプトン (監督:F・ゲイリー・グレイ 2015年アメリカ映画)
オレはヒップホップという音楽ジャンルに関してはなんとなくザラッと聴いた程度の人間である。幾つかのアーチストの名前はうっすらと知ってはいるが、実質的には何も知らないのと同様だ。こんなオレがヒップホップ・ムービー『ストレイト・アウタ・コンプトン』を観に行ったのは予告編に心ざわつかされたからである。
映画の中心となるヒップホップ・グループ、N.W.A.の名前なら知っていた。あまつさえ、大昔『100 Miles and Runnin'』(1990)というアルバムを買って聴いていたことすらあった。相当にハードでメタリックな音と性急なラップを繰り出すただならぬグループ、というのがアルバムの感想だった。映画『ストレイト・アウタ・コンプトン』はそんなN.W.A.の結成から崩壊、そしてその後のある悲劇を描いたセミ・ドキュメンタリーである。実は詳細は何も知らなかったので、てっきりドキュメンタリー・フィルムだと思っていたのだが、実際はメンバーとよく似た俳優による作劇となっている。
映画は彼らの怒れる音楽の本質には何があったのかが描かれる。それはなによりも理不尽に余りある黒人差別であり横暴すら通り越した警察による暴力である。自分の家の前を歩いているだけで警官に拘束され、レコーディング・スタジオの前に集まっているだけで地べたに押し倒される。黒人であるだけで誰も彼もが凶悪犯罪者扱いだ。それは人間として扱われていないということだ。彼らはその怒りを「ファック・ザ・ポリス!」とリリックに乗せた曲でぶちまける。クソ野郎、人として扱え!といういうことだ。しかしその曲さえ官憲に禁止され、遂にN.W.A.はFBIにすら危険なグループとして目を付けられる。折しもロドニー・キング事件に端を発するロサンゼルス暴動が巻き起こり、物語はN.W.A.というヒップホップ・グループのみにとどまらないアメリカ社会を歪みを重ね合わせてゆくのだ。
しかしそんなN.W.A.は決して無政府主義のアジテーターだったというわけではない。それは今触れたロサンゼルス暴動をメンバーたちが困惑した様子で眺めている描写からも浮かび上がる。彼らは自分たちが今直面している現実を曲にしているだけであり、その現実の理不尽さに怒りを表明しているだけなのだ。彼らはその怒りを、暴力ではなく音楽へと昇華していたのだ。それは当然のことだが彼らがアーチストである、ということだ。そんな彼らのアーチスト性は既に冒頭から語られる。実際にギャングスタだったのはメンバーのうち一人だけで、あとの者たちは純粋に音楽を愛しまたその素養に恵まれた者たちであった。彼らの音楽が凶暴性を放っていたのだとすれば、それは彼らの生きる世界そのものが凶暴だった、ということなのだ。
とはいえ後半はメンバー同士の衝突と離反、マネージャーの横領など、音楽ビジネスにつきものの生臭い物語と化してゆく。これもまたN.W.A.というグループのドラマのひとつなのではあるが、グループやジャンル自体に思い入れの無いオレとしてはそれほど興味を持てず、かなりアウェイ感を感じていたことは否めない。どうもすんません。社会への不満や怒りは伝わってきたが、仲間同士の血管ブチ切れ気味ないざこざに関しては「お、お前らちょっと落ち着け」と思わず口を出しそうになったぞ。しかしその死に関しては「アメリカの有名黒人音楽アーチストらしいハードウェイな人生だったなあ」と様々な黒人音楽スターの死に重ね合わせてしまった。