主人公に台詞一切無し!ひたすら逃亡を続ける男を描いた映画『エッセンシャル・キリング』

■エッセンシャル・キリング (監督:イエジー・スコリモフスキ ポーランドノルウェーアイルランドハンガリー映画)


主人公が一切台詞を吐かないまま展開する特異な映画作品、それがこの『エッセンシャル・キリング』だ。舞台はアフガニスタン、その荒涼とした岩山地帯で、主人公ムハンマドはアメリカ兵を殺害する。しかし彼は即座にアメリカ軍に発見され、逮捕、連行、監禁、そして苦痛に満ちた尋問が彼を待っていた。そしてその移送最中の雪山で、護送車の事故により、彼はからくも逃亡することに成功する。だがアメリカ軍の追跡は決して止む事を知らず、極寒と飢え、身体に負った深い傷を抱えながら、ムハンマドの死を賭けた逃走が続くのだ。
この映画の冒頭、ヴィンセント・ギャロ演じる主人公のタリバン兵・ムハンマドは、自らが放ったRPGの爆風と爆音により聾唖の状態となる。つまり、映画の中で、主人公はまるで喋ることなく映画は進行して行くのだ。ひたすら緊張を秘めた状況の中、ただただ黙したまま死に物狂いの逃避行を続ける主人公、その姿を観る者も、台詞も説明もない状況の中で、主人公の逃亡そのもののみに集中しながら映画を観続けなければならないのだ。
監督は主人公に台詞を与えなかった理由として、台詞それ自体が何がしかを想起させる情報になることを避け、さらに時代も場所も国も分からないほどに曖昧なものにしたかったと述べている。確かに映画における主人公の風貌はタリバン兵であり、それを追うのはアメリカ兵ではあるが、それはあくまで表徴的なものに過ぎず、タリバンやアメリカ兵、またそれに代わる政治的な何か、即ち国家や思想や宗教に特定・固執しているわけではなく、戦争の殺戮の中(もしくは単に"殺戮"の中)で【生き延びる】ことのみを主眼として描きたかったということなのらしい。ヴィンセント・ギャロを主人公として起用したのも、その国籍の特定できない顔つきからなのらしい。
そしてそのタイトル、『Essential Killing』のEssentialは「本質的なさま。絶対必要なさま。不可欠」という意味だが、するとこれは【本質的な殺戮】とでも訳せばいいのだろうか。殺す者がいて、殺される者がいて、追う者がいて、追われる者がいる。そしてその背景を一切曖昧に、不可視にすることで、本質的な【殺戮される者の逃亡】を描こうとする。それがイエジー・スコリモフスキ監督がこの映画でやりたかったことなのだろう。声の出せない兵士、それは象徴的な意味においても「声無き兵士」、そして「声無きまま死んでゆく定めの兵士」ということなのだろう。
監督イエジー・スコリモフスキポーランドの出身で、不勉強ながら彼の作品はこれを観るのが初めてだが、ポーランドという国がその長きに渡る歴史においてさまざまな分裂、統合、侵略、列強との併合などの辛酸を舐めてきた国家であったことを考えると、イエジー・スコリモフスキがこの映画で【国家や思想や宗教を特定しない、本質的な殺戮】を描こうとしたのはどういうことなのかが分かってくるのではないか。即ちポーランドがその歴史の中で味わってきた蹂躙は、もはやどこのどのような宗教や思想背景を持った国から成されてきたものであるとすら言えない、それはまず蹂躙の歴史であったとしかいえないような歴史背景があり、その【本質的な殺戮】の中で、【生き延びる】こと、【殺戮される者の逃亡】を描こうしたのがこの『エッセンシャル・キリング』の、本質的な部分であると言えるのではないだろうか。
ただ、オレの如き堕落したハリウッド・エンターティメントにすっかり慣れ親しんでしまった者の目から見てしまうと、この映画は本質的であるがゆえに華が無い、というかあからさまに「それ」だけのシンプルさゆえに、存分に楽しめる映画とは言えなかったということは付け加えるべきかもしれない。まあ追跡・逃亡の映画だったらハリウッド映画にはゴマンとあるからなあ。逆にハリウッド型のシナリオ・メソッドに飽き飽きしている人にこそ、この映画は楽しめるものであると思う。

■エッセンシャル・キリング 予告編