見知らぬ大地〜グラフィック・ノベル『アライバル (作:ショーン・タン)』

『アライバル』は文字の無い絵本である。それはこんな物語だ。
最初に家族の肖像が描かれる。一人の男とその妻、そしてその娘。時代は20世紀半ばほどだろうか。場所は東欧のどこかの町だろうか。男は旅支度をしている、どうやら一人旅のようだ。蒸気機関車に乗り妻と子に見送られる男。それから男は大型の旅客船に乗り継ぐ。海の旅はとても長い長い旅だ(船旅の長さを表わすためにここではなんと60コマを使って延々と移り変わってゆく雲の絵ばかりが続く)。
 
そして男がようやく到着した所、そこは…。

そこは、奇妙な建物が立ち並ぶ、幻想の異世界だったのである。

作者はオーストラリアのイラストレーター・作家、ショーン・タン。この絵本『アライバル』は、セピア色で描かれた一見ノスタルジックな雰囲気から始まるが、大勢の移民たちが新天地に辿り着くと、その世界は突然がらりとファンタスティックな異世界へと変貌するのだ。今まで見た事もないような幻想的な佇まいを見せる町並み、あちこちに闊歩する不思議な生物、見慣れない食べ物、理解不能な文字や習慣。主人公である男はこの新天地で驚愕し、戸惑い、好奇心でいっぱいになる。男はこれからこの町に住み、仕事を見つけ、生活していかなければならない。物語はおっかなびっくり始まる男の毎日を追いながら、次第にこの世界に打ち解け馴染んで行く男の様子を描いてゆく。この作品で、特別なドラマが物語られるということはない。未知の国で淡々と、そして精一杯生きようとする、一人の中年男の平凡な日々が描かれるだけだ。
しかし、読み始めれば気付くだろうが、ここで描かれる幻想の異世界は、空想や妄想の世界なのではなく、「文化も生活様式も全く違う異邦を訪れたとき、人にはその世界がどのように異様で不可思議なものとして目に映るのか」ということを、ファンタジックな絵を通して描いているに過ぎない。男は、多分ヨーロッパのどこかの町から、新天地アメリカへと移住した男なのだろう。20世紀中期の、夢と希望に溢れ、新しく珍奇な文化を謳歌し、豊富な物資に恵まれ、豊かさを満喫していた、自由の国アメリカ。ヨーロッパの田舎町からやってきたこの男が、アメリカという巨大な国の懐に抱かれたとき、この国をどのように感じたか、どのように見えたのか、その驚きと、世界の新鮮さを、感情や言葉ではなく、【絵】で描いた物語、それがこの『アライバル』なのだ。
物語は、この世界で苦労をしながら、やはり同じ境遇に生きる移民者たちと心を通わせて行く主人公を描いてゆくが、これら主人公と出会う人々の、生まれた国から出なければならなかった理由を描く幾つかのエピソードが、これがまた凄まじい幻視をまとったグラフィックとして表現される。主人公の男のような経済的な理由のみならず、そこには、戦争や侵略といった、20世紀中葉の世界のどこかできっとあったであろう不幸で不安に満ちた生活を強いられた人々の、その恐怖のさまが、悪夢のような幻想として描かれてゆくのだ。そして、それを乗り越え、今新しい生活を始めた人々が、精一杯生きようと模索するさまが、物語に深い陰影を与えている。
そういえば、男が国に残してきた妻と子はどうしているのだろう。男と家族は、再び会うことができるのだろうか。それはこの絵本を読んで是非確認してほしい。一切の文字も台詞も用いず絵画の説得力だけで最後まで描ききったこの物語、ラストはきっと心に暖かなものを運んでくれるはずだ。



なお、自分は日本の出版社から出たものを買ったのだけれど、文字がないのなら、洋書で買ったほうが安くつくかも知れない。

アライバル

アライバル

The Arrival

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