神無き世界のヒーロー〜2010年の最後を締めくくる大傑作映画『キック・アス』

キック・アス (監督:マシュー・ヴォーン 2010年アメリカ・イギリス映画)

■イカレた連中

最初に書くとこの『キック・アス』、べらぼうに面白く、そしてイカレた映画であった。

主人公は冴えないコミックオタク高校生デイブ。コイツはコミック好きが嵩じて自分もヒーローになれると信じ、日本でいうドンキホーテみたいなところで買ったダサい全身タイツ着て街に繰り出したはいいがチンピラにボコられた挙句車に轢かれて半死半生の目に遭う。当たり前だ。現実なんてそんなもんだ。だがコイツは、退院後それでもめげずにまたヒーローの格好して表に出るんだ。普通は懲りて止めるはずだろ?そしてまたチンピラと血まみれになってやりあう。狂っている。こいつは、イカレている。そしてチンピラになんとか勝ったデイブはホントにヒーローとしてまつり上げられてしまうんだ。
そんなデイブが出逢ったのがビッグ・ダディと仮面少女ヒット・ガール。しかしこいつらはハンパなかった。ヒット・ガールはデイブに襲いかかったチンピラどもを情け容赦なく切り刻み、ビッグ・ダディは平気で相手を撃ち殺し、あたりを血の海に変え死体の山を築くんだ。こいつらは強い。強いが正義のヒーローにしちゃああまりに無慈悲すぎる。こいつらは狂っている。こいつらは、イカレてるんだ。そして、ビッグ・ダディとヒット・ガール、そしてデイブは、さらに血生臭く陰惨なマフィアとの戦いに巻き込まれてゆくんだ。

キック・アス』はこんなふうに、生身の人間が現実にヒーローを演じようとするとどうなるか、を描いた映画だ。そのへんの普通の人間が架空のヒーローのマネッコしてリアルファイトなんかやったら血まみれの大怪我するに決まってる。そして格闘マシーンとして鍛錬した人間が本気で相手とやりあったらやっぱり血を見るのは明らかだ。手加減無しなら相手をブチ殺すこともあるだろう。だから普通はやらない。そのやらないことをやっちゃったイカレた連中、それが『キック・アス』の主人公たちなのだ。

■『ダークナイト』と『キック・アス

何度も書いているがヒーロー映画の金字塔でもある『ダークナイト』の何がイラつかされたかというと、バットマンジョーカーをぶっ殺さないことだった。中盤のあのカーチェイスの果てにジョーカーをぶっ殺してさえいればその後の殺戮も悲劇も起こらなかったではないか。そしてあそこでジョーカーぶっ殺して終わってくれればオレの中で『ダークナイト』は最高の映画として記憶されていた筈なのだ。それを倫理だか民主主義だかなんだか知らないがなんなんだよあの体たらくは!ヌルイよな!タルイよな!イカレたコスチューム・ヒーローのくせになに高潔ぶってんだよッ!全く骨の髄までヤキが回ってるよなよなバットマンのオッサンよお!

そこへゆくとこの『キック・アス』、なにしろ迷いが無い!情けも容赦も無い!とりあえず悪モンはぶっ殺す!ギタギタにする!それはなぜならそれが悪モンだからだ!「悪モンはぶっ殺されて当たり前」だからだ!善と悪の彼岸だの心の闇だのとシャラクセエこと言ってんじゃねえ!グダグダ小賢しい小理屈こね回してんじゃねえ!だいたい小理屈好きは変態と相場が決まってるからな!変態の戯言に付き合ってる暇なんかないんだよ!食うか食われるか、殺るか殺られるかなんだよ!
こうして映画『キック・アス』は普通ならそこで持ち出されるはずの逡巡やら内省やらをなにもかも潔いくらい見事にふっ飛ばす。それはある意味狂っているとさえ言ってもいいふっ飛ばし方だ。そして多分それは、彼らにとっての現実は、そんな理屈をこねてる余裕がないくらいに、残虐で、陰鬱で、逼迫しているからなのだ。それは善でも悪でもなく、「どっちが生き残るか」という熾烈な戦いだ。負ければ自分は踏み潰されてしまう、無かった存在にされてしまう、そういったものとの戦いだ。主人公のクソオタク野郎デイブはコスチュームを着て弾けなければ自らのアイデンティティを保てなかった。それだけ惨めな人生だった。そしてビッグ・ダディは復讐を成就できなければ生きていないのと一緒だった。彼の人生もそれだけ惨めだった。

そしてここでヒット・ガールの存在が問題になってくる。物心付いた時からビッグ・ダディにより殺戮の英才教育を受けていたヒット・ガール。11歳で相手を血塗れの肉塊に変える能力を持つ殺人兵器ヒット・ガール。しかし彼女にはデイブやビッグ・ダディのルサンチマンが存在しない。彼女は単なるビッグ・ダディの操り人形なのか。ビッグ・ダディとヒット・ガール。彼らはバットマンとロビンだ。「リアル・ヒーローとは何か」をテーマにした『キック・アス』において、ヒット・ガールでさえそのテーマから逃れることは出来ない。即ちロビン=「悪漢を退治する少年」はヒット・ガール=「悪人をブチ殺す少女」として描かれなければならない。「子供で、女の子だから、彼女だけきちんと倫理とか法律とか民主主義とかで守ってあげましょうよ」という言い訳は通用しない。『キック・アス』の世界は冥府魔道なのであり、父によって殺しを叩き込まれなければヒット・ガールはこの世界で殺られるだけなのだ。オレはそんなビッグ・ダディとヒット・ガール父子の暗黒行脚に「子連れ狼」の系譜を感じたし、同時にヒット・ガール自身には死んだ母の復讐の為血塗られた旅路を歩む「修羅雪姫」の幼い面影を見た。

■神無き世界のヒーロー

キック・アス』世界がなぜ冥府魔道なのか。西欧キリスト教圏において、「裁く」ことは"神の法"だった。「復讐するは我にあり」という言葉があるが、これは新約聖書の言葉であり、「悪に対して悪で報いてはならない。悪を行なった者に対する復讐は神がおこなう」という意味だ。人を裁くのは神であり、人が裁くとしてもそれは神の代理人としてだった。即ちコミックの世界においても、ヴィランを裁くヒーローとは神の代理人なのであり、混沌と破壊のみを生み出すヴィランたちは、サタンの化身だった。ヒーローがヴィランを退治するのは"神の法"であると同時に、『ダークナイト』でバットマンジョーカーを殺せなかった理由、それもまた"神の法"であったのだ。ここでバットマンは、"神の法"と"近代的自我"の二つに引き裂かれたヒーローだったのだ。だからバットマンの物語はあのように暗いのだ。

これまでヒーローは"超人"として描かれてきた。"超人"であること、それは神の代理人としての力を持つということだった。しかし『キック・アス』の世界には特殊能力など何も持たない現実の生身の人間がいるだけだ。殴られれば血が出る。それはただの人間だからだ。そして"ただの人間"であることが"神の代理人でさえ無い"という点で『キック・アス』とこれまでのヒーローものの作品は決定的に分かたれる。つまり『キック・アス』の世界には神はいないのだ。残虐で、陰鬱で、逼迫していて、善も悪もなく、「どっちが生き残るか」という熾烈な戦いのみがある世界。神のいない世界。しかし神がいないからこそ自らの力で彼らは戦う、血まみれになりながら。彼らは無力である、しかし、その力は、まごうことなく"自ら"の力だ。神無き世界で血まみれのニヒリズムを超えて立つヒーロー。それは新しい時代の"超人"であると同時に「神の死んだ」現代におけるニーチェ的な"超人"でもあったのだ。それが『キック・アス』なのである。

(12/25追記:映画『キック・アス』は日本では最初4館のみの上映でしたが続々上映館が増えているようです。興味を持たれた方は是非足を運んでみられてください。いやなんか応援したくてさあ。「拡大公開が決定した「キック・アス」の公開劇場情報」

キック・アス 予告編


キック・アス (ShoPro Books)

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Kick-Ass Music from the Motion Picture

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Kick-Ass 12 Inch Action Figure Kick-Ass

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Kick-Ass 12 Inch Action Figure Hit Girl

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