"正義"のその向こう〜映画『キック・アス/ジャスティス・フォーエバー』

キック・アス/ジャスティス・フォーエバー (監督:ジェフ・ワドロウ 2013年アメリカ映画)

■前作の覆面自警団たち

奴らが帰ってきた。キック・アス、ヒット・ガール、レッド・ミスト改めマザーファッカー。前作で大暴れした彼らは、この2作目でそれぞれに変節を経ている。アメコミオタクの一人覆面自警団、キック・アスは、一端はヒーローをやめるのだけれどもやっぱりムズムズしだし、同じ覆面自警団で組織された「ジャスティス・フォーエバー」に入団する。ヒット・ガールは保護者となった警官に「普通の女の子になりなさい」と固く言い渡される。レッドミストはキック・アスへの復讐を胸に、マザーファッカーと名を変え、覆面のゴロツキどもを組織する。三人三様の事情により物語は再び絡み合い、そして予想通り血塗れの死闘が幕を開けるのだ。

「自分も覆面ヒーローになって社会の悪を懲らしめるんだ!」という、アメコミの読み過ぎでちょいとイカレてしまった連中が、そのイカレ具合をどんどんエスカレートさせ、イカレてるだけでは済まされないとんでもない超暴力の世界へ行き着いてしまったのが前作だった。こういったモチーフは同工の覆面ヒーロー映画『スーパー!』でも描かれていたが、『キック・アス』と『スーパー!』が違うのは、ヒット・ガールとビッグ・ダディという、"玄人"の覆面ヒーローの存在だった。

ヒット・ガールとビッグ・ダディは、復讐のために覆面ヒーローを演じてたが、彼らは「筋金入り」だった。凡人が覆面ヒーローを演じるのは普通に考えたら滑稽な話で、その滑稽さが『キック・アス』のモチーフの一つだったが、ビッグ・ダディ親子のそれは、滑稽では済まされない狂気じみた領域まで達し、そして過剰にアンモラルである部分で物議を醸していた。キック・アス一人ではどうしようもなく非力な部分をヒット・ガールとビッグ・ダディは易々と飛び越えた。そんな"玄人"の覆面ヒーローと行動を共にすることにより、凡人ヒーロー・キック・アスは復讐と殺戮のめくるめくような世界を垣間見ることになる。それはアンモラルであるかどうか以前に、圧倒的な暴力の快楽であり、"正義"を名乗ることの快感だった。

■今作の覆面自警団たち

そんな彼らはこの2作目でどんなふうになっただろう?一度は覆面ヒーローを止めながらカムバックしたキック・アス。彼の入団した「ジャスティス・フォーエバー」の面々は、それぞれに事情を持つけれども、結局は「我こそに正義あり」と信じて疑わない痴れ者たち、よく言って能天気な連中の集まりでしかない。キック・アスはそんな連中と楽しくつるみながらもやはり満足できず、ヒット・ガールにもう一度仲間になろう、と声を掛ける。ヒット・ガールはヒーロー活動を止められており、死した父の思い出もまだ残っているにもかかわらずだ。同志として死闘を繰り広げながら、キック・アスはヒット・ガールの気持ちを考えようとすらしない。ヒット・ガールに特訓を仕込まれながらも、こいつの頭の中身は相変わらず成長の無いボンクラなのだ。

一方活動を止められたヒット・ガールは、覆面ヒーローとしての活動に未練たっぷりでありながら、なんとか自重しようとする。意に染まぬながらも保護者の言いつけどおり懸命に「普通の女の子」を演じようと苦闘する。その姿はいじましくもあり、普通の女の子の格好でスクリーンを闊歩するクロエ・モレッツもそれはそれで可愛らしいのだけれども、しかし変節の中で停滞したヒーローなど誰も見たくはないだろう。むしろここで描かれるべきだったのは、ヒット・ガールをどこにでも転がっているような「普通」の鋳型に押し込むことではなく、イカレた父に殺戮機械として育てられた自らの出自と向き合うことだったはずで、それを乗り越えてさらに「正義とは何か」ということに辿り着き、凄惨な笑みを浮かべながら死地へと赴く彼女の姿だったのではないか。

レッド・ミスト改めマザーファッカーについては特に書くことは無い。こいつは最初からイカレたガキだったが、復讐に猛り狂うこの2作目で、さらに目も当てられないようなイカレトンチキと化した。しかし発想も方法論もやっぱりガキのままで、成長が無いという意味ではキック・アスと五十歩百歩である。しかも1作目の『キック・アス』は一応大人の社会に存在するマフィアを倒すことが使命だったのが、この2作目ではキック・アスVSマザー・ファッカーという成長が無いガキ同士の戦いという意味では、おつむの足りない洟垂れコーコーセー同士が喧嘩ケンカに明け暮れる日本のDQNコミックとたいして変わり無いものと化している。まあこっち(キックアス)は結構な数で人死にが出ているが。

■"正義"のその向こう

このようにこの2作目は、前作で突き抜けたものを突き抜ることができないまま、不完全燃焼を起こした作品として出来上がっている。最大の問題は、主要人物3人が3人とも、自分のことに手いっぱいのまま、収束することなくてんでばらばらに描かれてしまっているという点だ。

しかしだ。こうした演出とシナリオ面の稚拙さ物足りなさがありながらも、自分はこの作品がやはり嫌いになれないのだ。決して前作は超えていないけれども、案外半年後ぐらいには観たことすらも忘れているかもしれないけれども、それでもキック・アスの連中と、とりわけヒット・ガールと、再び映画館のスクリーンで相まみえる事ができたことが嬉しくてしょうがないのだ。

だからもし3作目があるならオレは迷わず観に行くだろう。その時はこの『2』はオレの心の中ではこっそり『1.5』ということにしておこう。そしてその3作目(オレの中では真正なる2作目)では大人になった彼らを観たい。大人になり何がしかのものを得て、何がしかのものを失った彼らに、その時「正義」とは、「戦い」とはなんなのか、あるいは、なんだったのか、自らの口で語ってもらいたいのだ。若さに身を任せた「正義」のその向こうに、その茫漠たる荒野の果てに何が見えたのか、是非聞かせて欲しいのだ。

キック・アス (ShoPro Books)

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キック・アス2 (ShoPro Books)

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ヒット・ガール (ShoPro Books)

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