野球少女 (監督:チェ・ユンテ 2019年韓国映画)
男子ばかりの高校野球チームにたった一人女子として参加し、プロになる夢に遮二無二邁進する主人公。韓国映画『野球少女』の粗筋を知ったときは、あー女の子が男社会を苦労しながらぶち破ってゆき最後にみんなの理解を得て大会で大勝利!よかったよかった!みたいな政治的に正しいスポコン映画ね、と高をくくっていたのである。『野球狂の詩』の水原勇気の韓国版ね、などと思っていたのである。しかし実際劇場で観てみると、それだけの映画では決してなかった。
主人公スイン(イ・ジュヨン)は高校野球部でただ一人の女子選手として活躍していた。ポジションは投手。卒業後はプロ選手になる夢を持っている彼女だったが、世間はなかなかそれを受け入れてくれない。女であるという理由で選抜テストも受けさせてもらえず、新任コーチのジンテ(イ・ジュニョク)も母親も「現実を見ろ」と言って彼女の夢にとりあわない。しかし決して諦めず特訓を繰り返す彼女の姿に、ジンテは次第に心を動かされてゆく。
この物語、一見女性が「ガラスの天井を破ろうと努力する」物語のように思えてしまうが、注意して観るなら必ずしもそこだけにテーマがあるわけではない事に気づかされる。なぜならスインは既に男ばかりの高校野球部に在籍し、メンバーたちも彼女の実力を認めているからだ。プロの世界はそれ以上に女性参加に厳しいが、スインは高校野球部に入部できた経験から、熱意と実力さえあればきっと願いが叶うと固く信じていただろう。
ではこの物語で彼女の障壁となるものは何か。まずそれは母親が野球選手になる事を許さない、ということだ。彼女の家庭は父親が定職を持っておらず、家計は苦しい。スインの母は、スインが夢みたいなことばかり言わず、就職して自立してほしいと願っている。母はスインに、現実的になってほしいと思っているのだ。もう一つは、コーチであるジンテだ。自らもプロを目指し挫折した彼は、プロになる事の厳しさを身をもって知っている。だからこそジンテに夢をあきらめさせ、やはり現実を見させようとする。
映画はこうして、スインの置かれた現実と、大人たちの無理解を、淡々とした演出で描写してゆく。決して思うようにならない現実に、スインは決して泣いたり怒りを叩きつけたりするでもなく、仏頂面と言っていい程に感情を表に出さない。それは感情だけでどうにかなる世界ではないからだ。実力をつけること、それだけが現実を打破する方策だからだ。こうして、青春映画でありながら、感情吐露に重心を置かない、まるで甘さのない、恐ろしくハードボイルドな作品としてこの物語は進んでゆく。
大人たちの無理解があってもスインは決して諦めない。諦めないことは確かに大事かもしれない。しかし、スインには投球スピードがプロに及ばないという弱点があった。彼女は文字通り血の滲む様な特訓を繰り返すが、それも一朝一夕に叶うものではない。「頑張って特訓しまくったら強くなりましたメデタシメデタシ」なんていう予定調和的なお話ではないのだ。これは映画『ロッキー』のようにちょっと早朝走りこんだからといって急に強くなったような気になるお気楽なスポ根映画とは違うのだ。
スインの実力は頭打ちだ。決して剛速球投手にはなれないのだ。ではスインは諦めねばならないのか。しかし、スインの熱意に、遂にコーチの心が動かされる。そしてコーチもまたスインのためにできる限りのアドバイスをし、彼女の願いに応えようとする。すなわちこの物語は、原石のような才能を持ち、同時にまだ至らない部分も持つスインのような子供たちの夢に、大人がどう理解を示し、サポートをしてゆけるのかという物語なのではないかと思うのだ。
スインがどれだけ才能を持っていても、それを上手く社会にフィットさせてゆくことは難しい。そこに道を示し、手を差し伸べるのは大人の役目なのではないか。スインがプロになれるのか、なれないのかということは、それは映画という物語を完結させるために必要なことだが、例えこれが叶わなかったのだとしても、スインのために尽力したコーチの態度は正しく美しいものだったろうと思う。映画『野球少女』は、たった一人の少女のサクセスストーリーを描くのではなく、子供たちの夢をすくい上げてゆくべき社会とコミュニティと、その健全な在り方についてを描いた作品なのではないだろうか。