『ニュー・ダーク・エイジ テクノロジーと未来についての10の考察』を読んだ

ニュー・ダーク・エイジ テクノロジーと未来についての10の考察 / ジェームズ・ブライドル (著), 久保田晃弘 (翻訳)

ニュー・ダーク・エイジ テクノロジーと未来についての10の考察

情報テクノロジーはますます進化し、経済・政治・社会の変化を加速している。しかし今、人々は溢れかえる情報の中で、単純化された物語や「ポスト真実」に惑わされている。ショッピング、金融市場からAI、国家機密に至るまで、私たちは世界がどのように動いているのか理解できなくなっている。こうしたIT時代に潜む危険に、いかに立ち向かうか?テクノロジーに精通した気鋭のアーティストが未来を展望する。

オレには珍しくITに関するドキュメンタリーを読んだ。タイトルは『ニュー・ダーク・エイジ』、副題として「テクノロジーと未来についての10の考察」とある。ここでいうテクノロジーとは情報テクノロジーを指す。この本では発達し拡大し肥大し、世界と社会とを広範に覆う「情報テクノロジー」が、それが当初夢見られていた有用性から逸脱し、もはや人智とその想像力を遥かに超えた部分に存在しながら、【新たなる暗黒時代=ニュー・ダーク・エイジ】を生み出していると説いてゆくドキュメンタリーである。

扱われるトピックは多岐に渡り、例えば気象情報とコンピューターの進歩と戦争と環境破壊と航空機事故とが一連の繋がりのものであるとして検証されてゆく様はスリリングだ。同様に米大統領選とバルカン半島の小さな都市とYouTubeブレグジット運動と陰謀論が一つの糸で繋がる。この著書であからさまにされるのはこういった「不可視の世界で繋がった事実」だ。一見バラバラのもののように思えるこれらの事柄は、「情報テクノロジー」の生み出した恣意性とアルゴリズムをそこに見出すことによって実は一つに結び合わさった事項であることが示唆される。

「情報テクノロジー」、本書で言う「ネットワーク」は、こうして不可視の世界で肥大し、世界それ自体を覆いながら、既に人の理解を超えた複雑なものと化し、にもかかわらず我々はそのような世界、そのような社会でしか生きざるをえなくなっている。それが【新たなる暗黒時代】なのだという。

例えば最も卑近で分かり易い例で言うならインターネットの世界だ。誰もが遍く簡易に利用することの出来る世界規模の情報通信網、それは運用当初、国家や社会の慣習とヒエラルキーを易々と飛び越え、個人と個人とが個々に交流し知識を共有できる「夢のような」ツールに思えた。だが現在のインターネットは国家による新たなヘゲモニーと、SNSのイデオロギッシュな党派性と、「単純な物語」に逃避する人々のパラノイアックな分断と、絶え間ない企業広告に満ち溢れた、「ポスト真実」でしかなくなってしまった。GAFAの台頭はテクノロジーによるユートピアを生み出すことなく、テクノロジーによるグローバル資本主義を生み出しただけだった。唾棄すべき旧弊な世界を脱したと思ったらそこもまた新たなる唾棄すべき世界でしかなかった。それこそが【新たなる暗黒時代】なのだ。

ここには「計算」で全てがあがなう事が出来るとする「計算論的思考」、テクノロジーアルゴリズムビッグデータがあらゆる問題を解決するとうそぶく「解決主義=ソリューショニズム」への偏向がある。「解決主義」が導き出す「効率化」と「簡略化」に最も親和性の高い社会の行く末にあるのはネオリベラリズムだ。だがデータが第一義となる「解決主義」にイマジネーションもクリエテイヴィティも存在しない。だからこそ、『ニュー・ダーク・エイジ』の著者ジェームズ・ブライドルは、こうした「計算論的思考」と「解決主義」に、アルゴリズムに支配されたテクノロジー社会に、即ちこの【新たなる暗黒時代】に、イマジネーションで対抗すべきなのだと説く。それはシステムに対して意識的であれ、ということである。 

……とまあ書いたが、「イマジネーションで対抗すべき」だの「システムに対して意識的であれ」だの、耳障りはいいが漠然とした言説ではある。IT業種でもなく著者のようにアーチストでもないしがないゲンバ作業員のオレが「テクノロジーと未来」について実感のある言葉を見出すのは難しい。だからオレはこの本を「SF」として読んだ。サイエンス・フィクションではなくサイエンス・ノンフィクションではあるが、「テクノロジーと未来」についてならば「SF」として解釈して読むと受け入れやすかった。

目に見える世界の裏側に理解し難い世界が昏く茫洋として広がっており、その「理解し難い世界」によって人が生かされ生を営んでいるという不気味さ、居心地の悪さ。それはSFを始めとするフィクションのテーマとして時に取り沙汰される。そして実は現実の世界それ自体がこのような不気味で居心地の悪いシステムにより成り立っているのだということをこの著書では訴える。この著書でラブクラフトがタームとして引用されるのは実に暗示的だ。ではどうすれば?ということは、実のところ分からない。オレの手に負えるものではない。しかし「薄気味悪い時代になったものだな」という実感は得ることはできる。少なくともその実感を持って/意識して生きることはできる。少なくともそれが「ニュー・ダーク・エイジ」を生きる方法なのだろう。

ニュー・ダーク・エイジ テクノロジーと未来についての10の考察

ニュー・ダーク・エイジ テクノロジーと未来についての10の考察