絶対零度の抒情〜映画『ベルフラワー』

ベルフラワー (監督:エヴァン・グローデル 2011年アメリカ映画)


この『ベルフラワー』は、映画『マッドマックス2』に憧れ、その終末観に心酔し、改造車や火炎放射器を作って日々を過ごす二人の若者が、つきあっていた女に裏切られ、幻想的とも呼ぶべき暴力と狂気の闇の中に引きづり込まれてゆくという物語だ。

しかし実のところ、『マッドマックス2』と深く関わり合った物語という訳ではない。『ベルフラワー』には『マッドマックス2』のヒロイズムもアクションもスピード感もない。『ベルフラワー』の主人公男子二人、ウッドローとエイデンのやっていることは、単に子供じみた"マッドマックスごっこ"でしかない。しかしたったひとつ、「世界は終わっている」ということが、その「どんずまり感」が、『ベルフラワー』と『マッドマックス2』の共通項となっているのだ。

マッドマックス2』の世界は石油が枯渇し国家が崩壊し人々が文明を喪失した文字通りの「終末」だったが、『ベルフラワー』は惚れていた女に裏切られ心破れた男の内面的な「終末」だった。そう、失恋というものは確かに、「世界の終り」と比すべき、壮烈な崩壊感覚に満ちている。何故なら恋するものにとってその相手は、「世界の全て」だからだ。その「世界」を失ったとき、人はどうするするか。悲嘆し、恐怖し、哀訴し、後悔し、狂気にとらわれ、さらには、自分から逃げ去って行った「世界」そのものを破壊してしまおうという怒りと復讐の念が巻き起こることさえある。失恋を巡るあまたの物語作品は、これらの暴風雨のごとき感情の渦を描くものであるが、人の感情の発露の在り方が様々なように、一言で「失恋」と言っても、それを描く物語も様々となる。そしてこの『ベルフラワー』では、最初は"ごっこ遊び"でしかなかった『マッドマックス2』の「終末観」が、失恋によって、本当の意味での、生々しい「終末」へと結びつく、という逆転現象が起こっている。恋を失ったウッドローは、怒り、歎き、苦しみ、狂気のごとき暴力の幻想へと彷徨いだし、そして圧倒的な「終末」へと近づいてゆくのだ。

しかし、ウッドローとエイデン二人の「終末観」は、ただ単に『マッドマックス2』オタクであったという以前に、実はあらかじめ用意されていたものだということもいえないだろうか。それは彼らのどこか空虚で荒んだ生活の様子からも伺える。つるんで飲んだくれ、火炎放射器という"玩具"で遊ぶ日々。そもそも彼らはどうやって生活していたのだろう?どうやって社会と関わり、どうやって収入を得ていたのだろう?学生かもしれないし、ニートかもしれないし、改造車や火炎放射器を作っているぐらいだから、なにがしかのエンジニアなのかもしれない。しかし、それらは映画では描かれない。ただ単に、ひたすら現実感の喪失した日常しか描かれない。現実感の喪失した日々を生きる彼らは、例えどんな生業に就いていようと、希望の無い、"終わった"人生を続けていた連中だということは想像に難くない。そう、彼らは、"あらかじめ失われた青春"を生きる事を余儀なくされた若者たちであり、その空疎な人生が、『マッドマックス2』への偏愛と結びつき、そして失恋によってさらに、壮絶な「終末」を迎える、これは、そういう物語なのだ。

この、完膚無きまでの、「どんずまり感」の上塗り、あまりに徹底的な、【虚無】。全ては虚無から始まり、また虚無へと還ってゆくだけの物語。そこには何一つ抒情は無い。いや、恋が甘やかな蜜月を迎えていたときだけ、そこにはほのかな抒情は存在していた。それは、他愛はないが、十分に暖かかった恋愛の情景だった。それは、全てが虚無から始まった恋であるからこそ、どんなに他愛ないものであろうと、いじましくもまた美しい、なけなしの抒情を湛えていたのだ。この映画は、終末と虚無を描きながらも、そんな、絶対零度とも呼ぶべき乾ききった抒情が心を奪う、からっけつな青春映画として輝き渡っているのである。

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