懐疑という名のパラノイド〜映画『裏切りのサーカス』

裏切りのサーカス (監督:トーマス・アルフレッドソン 2011年イギリス/フランス/ドイツ映画)


ジョン・ル・カレの小説は20代の頃によく読んでいた。とりあえず「寒い国から帰ってきたスパイ」から「リトル・ドラマー・ガール」あたりまではきちんと読んでいたが、近作では「ナイロビの蜂」を読んだ程度だ。ル・カレの初期作品の多くは、簡単に言うと「スパイ小説」なのだけれども、冷戦構造の只中にあった世界で、東西両陣営の諜報員たちの、「誰も何一つも信じられない」という異様なまでのパラノイアックな心理状況を描く物語だった。この異様さが、東西冷戦という政治状況とも、スパイという特殊な職業とも離れ、現代社会を生きる人々の、ひとつの業病ともいえる心理状況と酷似していたからこそ、ル・カレの小説は多くの人の支持を集めたのではないかと思う。何一つ信じられない世界に生き、次第に現実世界から乖離してゆく諜報員たちの心理は、少なくとも、当時現実から限りなく離れて生活していた自分の心情に、あまりにも近いものだった。今でも「ドイツの小さな町」という小説に登場する諜報員の、「自分はいつになったらあの現実世界に生きる人々の中で生活できるようになるのだろうか」といった台詞が、自分の胸には深く刻まれて離れなかったりするのだ。
映画『裏切りのサーカス』は、ル・カレのスパイ小説「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」を映画化したものだ。東西冷戦下の時代を背景に、英国諜報部「サーカス」から引退したスパイ、スマイリーが、「サーカス」に存在するとされるソ連の二重スパイを炙り出すべく極秘指令を受ける、という物語だ。ここで描かれるのは、細かな事実の集積と捜査、それを推理する知力と敵陣営との攻防、といった心理戦・頭脳戦が主となる。しかし心理戦とはいえ、血なまぐさい殺しは当然のように存在し、無慈悲な拷問・密殺も同じく当然のように存在する。ここは、死が常に隣にあり、そしてそれが「当たり前」な、恐るべき非情の世界であるのだ。ここでは、007やミッション・インポッシブルと違い、胸のすくアクションも快刀乱麻な回答もすっきりした善悪も存在しない。ただ暴力と死だけが確実に存在する世界で、ヒーローでもなんでもない生身の人間たちが、常に密告と裏切りと暗殺に怯え、「誰も何一つも信じられない」パラノイアに心を支配されたまま、薄氷を踏むように任務を遂行してゆく。この【どこまでも拭い切れない圧倒的な不安感】が映画全体に異様な緊張感を生み、映画を観る者は登場人物同様、目の前にいる誰一人信用できないまま、物語の進行を心細く見守ってゆくしかないのだ。
このような物語を、主演ゲイリー・オールドマンをはじめとする渋すぎる実力派英国俳優が登場して苦虫噛み潰したような表情で演じるものだから、物語世界への没入感はいや増すというものだ。なにしろどの俳優も顔がいい。画像も英国が舞台らしく彩度を落とした煤けたような色彩の風景が延々と続き、観ていて心理的にどんどんうんざりしてくるところがまたいい。地味と言えば地味ではあるし、時系列の描き方や登場人物の多さから分かり難い映画だという声もあるようだが、映画全体を覆うひたひたと忍び寄るような緊張感、不安感は格別なものであり、それを堪能できるというだけでも一級の映画だといってもいいと思う。

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