風、風、風。〜映画『ニーチェの馬』

ニーチェの馬 (監督:タル・ベーラ 2011年ハンガリー・フランス・スイス・ドイツ映画)


風、風、風。映画『ニーチェの馬』は全編を通して激しい風が吹きすさぶ。白黒のフィルム。吹き荒れる風といつまでもいつまでも鳴り止まないその陰鬱な唸り。雑草が風になぎはらわれているだけの荒野。その人里離れた荒野の中に建つ煉瓦作りの無骨な一軒屋。そこで暮らす初老の男とその娘。映画は、父娘の過ごす、暴風の中の6日間を描くが、しかしその6日間に取り立ててドラマがあるというわけではない。男は荷馬車仕事を、娘は家で家事をこなす。暮らしぶりは貧しい。時代は19世紀の終わりごろだろうか。朝、娘は父の身支度を整える。井戸へ水を汲みに行く。馬に荷台を付ける作業をする。しかし、父は仕事に出ようとするが、馬はびくとも動こうとしない。しかたなく、父娘は窓から風の吹き荒れる荒野を見つめ続ける。かまどの火で暖を取り、明かりはと言えばランプだけだ。そしていつもの、湯で煮た大きなジャガイモ一つのみの食事。父は薪を割り、娘は裁縫をする。たまさかの来客、そして土地への闖入者。そんな日常生活が繰り返される。毎日、毎日。そして風は、決して吹き止まない。

寡黙で無表情な父娘と、彼らが黙々と繰り返す苦役のような日常。映画はこれらをじっくりと長回しで捉え続ける。その光景は荒々しく、よそよそしく、ごつごつとして、それ自体が、そこで暮らす父娘の心の原風景のようだ。それは同時に、ニーチェの思想の根幹にあるディオニュソス的なものを示唆しているのかもしれない。

ニーチェの馬』というタイトルは、ニーチェ晩年の逸話から採られている。

1889年1月3日にニーチェの精神は崩壊した。この日、ニーチェトリノ市の往来で騒動を引き起して二人の警察官の厄介になったということ以外の正確な事情は明らかになっていない。しばしば繰り返される逸話は、カルロ・アルベルト広場で御者に鞭打たれる馬を見て奮い立ったニーチェがそこへ駆け寄り、馬を守ろうとしてその首を抱きしめながら泣き崩れ、やがて昏倒したというものである。これについては、学生の頃移された脳梅毒が悪化して妄想や幻覚を見る様になったとの説もある。
Wikipedia-フリードリヒ・ニーチェ

映画は、この馬がその後どうなったのか、を描いたのだという。この馬、というのは映画の中で父娘が飼う馬のことなのだろう。鞭打たれ、ただただ苦役をこなす為のみに存在する愚直な馬。そして荒れ狂う風に怯え、仕事に疲弊し、一歩たりとも動くことの出来なくなってしまった馬。ニーチェが抱きしめ涙した馬。そして、ただただ同じ毎日を繰り返す父娘と、その苦役のような日常。しかしそれでも彼らは打ちひしがれること無く、ただ昨日と同じ今日を愚直に生きていく。そしてこの映画に登場する馬も、父娘も、実は同じ存在なのだといつしか気付かされる。それならば、この父娘をも、ニーチェは抱きしめ、そして涙したに違いない。ニーチェニヒリズムの思想家といわれるが、同時に、ニヒリズムの克服を唱えた思想家でもあった。全ては虚しい。全ては永劫回帰である。そしてこの絶望的な繰り返しをあえて肯定すること。映画『ニーチェの馬』は、ニーチェのこうした「ディオニュソス的な肯定」をフィルムに焼き付けた作品だったのだろう。

ニーチェの馬 予告編