聾唖夫婦とその娘との愛の軌跡〜映画『Khamoshi: The Musical』【バンサーリー監督特集その5】

■Khamoshi: The Musical (監督:サンジャイ・リーラー・バンサーリー 1996年インド映画)


勝手に続けている「サンジャイ・リーラー・バンサーリー監督週間」、最後となる今回は1996年に公開されたサンジャイ監督のデビュー作『Khamoshi: The Musical』。タイトルの意味は「沈黙のミュージカル」になるらしい。聾唖の夫婦とその娘が中心となり、そこに娘を見初めた男が加わることでドラマが進んでゆく。主演はサルマーン・カーン、ヒロインにマニーシャー・コイララ。

《物語》ゴアに住む聾唖の夫婦、ジョセフ(ナーナー・パーテーカル)とプラヴィ(シーマー・ビシュワース)にはアニー(マニーシャー・コイララ)という娘がいた。両親の愛情をたっぷりと受けて成長したアニーは、ある日ラージ(サルマーン・カーン)という名の青年と恋に落ちる。作曲家であるラージはアニーの歌の才能を認めて歌手デビューさせ、さらに二人は結婚を考えるようになった。しかし父ジョセフはアニーの結婚を頑なに認めようとしなかった。そんなある日アニーは交通事故に遭い昏睡状態に陥ってしまう。

「処女作にはその作家の全てが込められている」という言葉通りに、今こうして観ると『Khamoshi: The Musical』にはサンジャイ監督の特色と呼ぶべき様々な要素を見つけることが出来る。まずインド映画であることを感じさせない無国籍的な雰囲気作りだ。舞台となるゴアは南欧を思わせる風光明媚な景色と、キリスト教を主たる宗教にしている部分でそう感じさせる。登場人物たちの服装も西洋的なスーツやカジュアルウェアで、ヒロインはサリーではなく白のワンピースを着ている。そしてダンスシーンこそインド風ではあるが、全体で使用されるサウンドトラックはストリングスを主としたイージーリスニング風のものだ。その目くるめくような美術センスはこの作品ではまだ発露を見せないが、あるダンスシーンでは仮面舞踏会を思わせるエキセントリックな色彩とデザインを見せている。

この作品では「聾唖の夫婦」という形で現れるハンディキャップを持つ者を主としたストーリー作りは、その後のサンジャイ監督作品『Black』『Guzaarish』に共通する。また、この作品クライマックスの父ジョセフの手話による演説は『Black』クライマックスの主人公少女の手話演説と被る。しかしこれまで監督してきた7作品のうち3作品がハンディキャップを扱った作品である、というのもかなり多くはないか。これはサンジャイ監督がハンディキャップを持つ者に限りない共感を持っているというよりは、実はそのほうが作り易くウケもよい、という事情があるからのような気がしてならない。

なぜならサンジャイ監督からは並々ならぬ美術センスと演出力こそ感じこそすれ、作話能力には乏しく思えるのだ。これは7作の監督作品のうちこれまた3作が原作付きで、さらに1作品は実際に存在する偉人の人生を原案とした作品であることから考えられる。『Devdas』『Ram-Leela』など原作付きのサンジャイ監督作品は美術に徹することで素晴らしい作品となったが、同じく原作付きの『Saawariya』は美術のみの突出した物語の薄い作品だった。実の所、オレのお気に入りであり素晴らしい美術を魅せる『Ram-Leela』さえも、残念ながら物語においては貧弱な部分があるように思う。

そういった部分でこの『Khamoshi: The Musical』も、ハンディキャップの物語に頼りすぎているきらいはあるにせよ、演出の良さが際立つことによって決して嫌味を感じさせず、良い印象を残す作品だった。聾唖夫婦の娘が音楽を志す、という物語展開には運命の不思議を感じさせるし、聾唖の父が手に火傷を負った時、手を使えないということは声を失ったということと同じだ、なぜなら手話ができないからだ、といったくだりには説得力があった。主演のサルマーン・カーンは言うに及ばず、ヒロイン演じるマニーシャー・コイララの薄幸な可憐さは見る者を魅了するだろう。しかしなんといっても聾唖夫婦を演じたパーテーカルとビシュワースの迫真のこもった熱演が素晴らしかった。本当の主演はやはり彼ら二人だろう。