MONSTER モンスター[完全版] / エンキ・ビラル

2026年、ナイキはその驚異的な記憶力により過去を蘇らせ、自分が生まれた1993年、戦火のサラエヴォでの出来事を思い出す。生まれて数日後に出会った同じ孤児のアミールとレイラのこと、彼らを生涯守ると誓ったこと…。さまざまな宗教が覇権を争う時代、ナイキは離ればなれになったふたりを探し出そうとするが、意図せずして世界規模の闘争に巻き込まれてしまう。この争いは謎めいた「モンスター」によって操られていた。エンキ・ビラルが、その驚異的な洞察力を駆使して描く近未来の世界。

バンド・デシネ界ではメビウスと並び巨匠の名を欲しいままにする作家、エンキ・ビラルだが、日本ではその訳出本の数は少なく、その絵の凄さだけは伝わってくるものの、彼が創り出す物語の全貌はなかなか掴めなかった。そして今回、やっと彼の「モンスター」三部作が合本完全版として邦訳され、これは読まねば、と早速飛びついたのだ。
物語は近未来のヨーロッパを舞台に、かつて戦火のサラエヴォで生まれ散り散りになっていた3人の男女が、原理主義結社「オブスキュランティス・オーダー」とそのメンバーであるテロリズム・アーティスト、オプテュス・ウォーホールが引き起こした世界規模の紛争と破壊に翻弄されながら、再び出会うまでを描いたSF作品だ。近未来のサイバーかつ退廃的な文化・風俗、まるで臓物と神経節のように入り組みとぐろを巻く街並みと機械群、火星への次元断層、誰が本物で偽者なのか容易に判別できないクローン、寄生体、そして蝿、魚類という謎のキーワードに満ちたこの物語を、エンキ・ビラルは暗く寒々しく、常に蠢いているかのような描線で描ききる。
しかしその物語は実のところ、とっつきやすいものであるとは言い難い。まず登場人物たちの顔が似通っている上に、彼らのクローンがいつの間にかそこここで物語を演ずるために、読んでいて戸惑うことがしばしばあった。ページを繰るごとに次から次に沸き上がる鮮烈なイメージには目を奪われるが、それに追いつかないストーリーテリングには時としてもどかしさすら感じた。エンキ・ビラルの繰り出すイメージには何がしかの"意味するもの"があるように思えるのだけれども、それをなかなか読み取れないことも歯痒かった。
この分かり難さは、作者エンキ・ビラルが旧ユーゴスラヴィアの生まれであり、そしてこの物語の背景に、ユーゴスラヴィア紛争とその崩壊、そして急進派の台頭による傷あとが残されているからなのではないかと感じた。ユーゴスラヴィア紛争といえば去年観て非常に感銘を受けた映画『アンダーグラウンド』を思い出すが、とても一言では説明できない複雑なファクターを持った紛争であり、当の自分もその全容を理解しているとはとてもとても言えない部分がある。
しかしユーゴ紛争というキーワードからこの物語を逆引きするなら、世界への不信、決して相容れない党派性とその闘争、クローンとして何度も体験する死、瓦礫の未来という名の記憶、そして盟友とのなけなしの愛…などといった物語の断片から、作者の垣間見たユーゴ紛争の片鱗をうかがう事が出来るかもしれない。そういった意味で、決して万人向けの内容ではないにしろ、十分挑戦し甲斐のあるコミックであると言える。そしてなによりも、絵が、素晴らしい。特筆すべきはエンキ・ビラルがグラフィックの中で使う「赤」だ。それは血のような赤ではない。それは、血そのものの赤なのだ。エンキ・ビラルの絵は、常に血を流し続けている。そしてその赤い血は、ユーゴ紛争の中で流し続けられてきた血の色なのだ。