パンク、異端児、スーパーハッカー。映画『ドラゴン・タトゥーの女』の魅力はひとえに主人公リスベットにある。

ドラゴン・タトゥーの女 (監督:デヴィッド・フィンチャー 2011年アメリカ、スェーデン、イギリス、ドイツ映画)


デヴィッド・フィンチャー監督の映画は、題材の選び方が非常にユニークであり、ある意味センセーショナルで話題性のあるものを取り上げていることが多いため、興味をそそる監督であるし、その映画も一通り観てはいるのだ。『ファイト・クラブ』や『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』などはとても好きな映画だったりするし、『セブン』や『パニック・ルーム』も、悪くない出来だろう。にも関わらず、例えば『ゾディアック』や『ソーシャルネットワーク』あたりは、どこか今ひとつ観ている自分の感情が入り込み難い作品であった。そして今回の『ドラゴン・タトゥーの女』である。レッド・ツェッペリンの「移民の歌」(のアレンジ・バージョン)をフィーチャーした予告編がとても気に入っていたので、大いに期待して観に行ったのだ。

物語の舞台はスウェーデン。ジャーナリスト、ミカエル・ブルムクヴェスト(ダニエル・クレイグ)の元に、かつてスウェーデン経済界に君臨していた大富豪、ヘンリック・ヴァンゲルから、40年前失踪し、行方の分からないままになっている、一族の娘が巻き込まれたであろう事件の真相を追って欲しいという依頼が来る。失踪した現場は、一族の住む島であったが、橋一つでのみ内陸に繋がっている島から娘が出て行った形跡は無い。犯人はその時島に集まっていた一族の誰かであり、そして誰もが疑わしい。ミカエルは、調査協力者を探すが、彼が白羽の矢を立てたのは、人を寄せ付けぬパンク・ファッションに身を包み、天才的ハッカー技術を持つ女、リスベット・サランデル(ルーニー・マーラー)だった。そのリズベットは、忌まわしい過去を持ち、周囲と相容れたがらない反社会的な側面があった。

なにしろまず第一にこの映画は、ルーニー・マーラー演じるリスベットの、キャラ萌えの映画である、と言い切ってしまっていいだろう。蒼白な顔色に沢山のピアス、パンキッシュなファッションと超然とした態度、寡黙、人嫌い、変人、にも関わらず驚くべきハッカーの腕前と頭の回転のよさと洞察力を持ち、時として暴力に見舞われるが、その暴力に対して3倍返しはする断固たる意思と実行力、エキセントリックという言葉があまりにも似合うリスベットというキャラに、自分はすっかり魅了されてしまった。今ハリウッド女性キャラで旬であり№.1と言えるのはこのリスベットを他において存在しないだろう。この映画はリスベットの一挙手一投足に感嘆し賞賛し愛でる為に存在しているとさえ思う。社会的に虐げられているものであるにもかかわらず、その逆境をものともせずに打ち返す女、しかし、その身に纏ったパンク・ファションと鋭利な知性は、この過酷な現実から身を守るための鎧でしかなく、そのクールな態度とは裏腹のナイーブさがどこかに存在すると感じさせてくれる女、それがリスベットだ。リスベットというキャラクターへの共感は、内面の脆さを懸命に強さへと変換しようとする、彼女の死に物狂いの生き方そのものへのリスペクトであるのだ。

一方、そのリスベットと共に事件調査をするミカエルは、正義と公正を重んじ不正を消して許さない、伝統的なヒーローだ。彼もまた優れた知性と行動力を持ち、マッチョというものではないにせよ、男らしさと父性を兼ね備えた魅力的な人物だ。映画は、事件の真相を追うミステリ部分と共に、調査を通し、このミカエルとリスベットとに、恋人同士のような、親子のような、そしてどこか戦友のような、強い絆が生まれてゆくさまが描かれてゆく。

しかし、この物語には、ヒーローであるミカエルが既に存在しているのに、もう一人、エキセントリックな鬼っ子であるリスベットが登場しなければならない必然性がどこにあるのだろうか。逆に、ミカエルの存在しないリスベット一人の活躍の物語であってもおかしくはないわけで、これは、「なぜこの二人が主人公なのか」ということを考えなければ読み解けない部分が物語にあるということなのではないか。それは、この物語が、社会的弱者としての女性が惨たらしい犯罪の犠牲になっている、ということをメインテーマに持ってきていることがあるのだろう。ヒーローであるミカエルは、男として、男社会の作り出した陰惨な歪みを追求しようとする。そしてリスベットは、女性であるばかりに、自らも一人の社会的犠牲者となってしまった背景を持ち、その立場から、女性を餌食に掛ける忌まわしい事件を糾弾しようとする。こういった、男女それぞれの立場から、一つの事件を追い詰めてゆく、という構造の物語は、今までもあったのかもしれないが、やはり珍しくそして新鮮であり、男女が一つの社会をそれぞれに担っていることを考えるなら、非常に理想的な構造を持ったドラマだということができるのだ。

だが、そういった構造の物語だと考えるなら、フィンチャーの描くこの物語の在り様は、物語が持つ本来エモーショナルなものをスタティックに描きすぎているように感じた。キャラクターとしてのリスベットがあまりにクールに描かれ過ぎているがゆえに、リスベットが"たまたま"女性が犠牲者の事件の調査をしているようにしか見えない、つまり、リスベットのこの物語における存在理由が説得力薄弱にみえてしまうきらいがあるのだ。フィンチャーは、洗練さゆえに自らが描くものを突き放し過ぎている、客観的に描きすぎているのではないか。映画を観る時に、映画に登場する者の内面を考えるのと同じぐらい、それを描く監督の内面も考えるものだが、フィンチャーフィンチャー節ともいえる独特の感触のある監督であることは理解できても、職業監督としてあまりにもプロフェッショナルに徹しているせいなのか、フィンチャー自身の内面自体は捉えにくい、そのことが、自分がフィンチャー映画に対してこれまで感じた微妙な肌の合わなさの原因ではないかという気がするのだ。

とはいえ、先に挙げたリスベットの魅力、そして、ダニエル・クレイグの円熟した演技力、さらに、脇を固める演技人の一癖あるキャラクターの面白さから、この映画は傑作であるといっていい。原作は3部作で、既に原作の書かれたスウェーデンでは3部作とも映画化されているらしいが、このハリウッド版も是非残り2作を映画化して欲しい。ただし、デヴィッド・フィンチャー抜きで。

ドラゴン・タトゥーの女 予告編


ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女 (上) (ハヤカワ・ミステリ文庫)

ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女 (上) (ハヤカワ・ミステリ文庫)

ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女 (下) (ハヤカワ・ミステリ文庫)

ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女 (下) (ハヤカワ・ミステリ文庫)