死を想え。〜映画『ヒアアフター』

ヒアアフター (監督:クリント・イーストウッド 2010年アメリカ映画)


――食べ、飲もう。我々は明日死ぬのだから (イザヤ書 22:13)
クリント・イーストウッドの映画『ヒアアフター』、タイトルである"HEREAFTER"は【来世】とか【将来】という意味があるのらしい。そして映画『ヒアアフター』は現実世界で傷ついた人々が【来世】をキーワードに現実世界の【将来】を生きようとする物語なのだ。
主要となる登場人物は3人。一人は霊能力を持ち死者と対話できる能力を持ちながら、その力に翻弄される人生に疲れ果てた男ジョージ(マット・デイモン)。もう一人は津波に巻き込まれ死後のヴィジョンを見てしまうという臨死体験を経験したばかりに社会生活が営めなくなった女マリー(セシル・ドゥ・フランス)。最後の一人は双子の兄を事故で亡くし、それ以来死後の世界にいるだろうはずの兄と対話することを願って止まない少年マーカス(ジョージ・マクラレン)。3人はサンフランシスコ、パリ、ロンドン、それぞれ地球上の別々の街で暮らしており、最初はこの3つの街を行き来しながらエピソードが物語られてゆくが、次第に彼らは運命の糸に手繰り寄せられるように接近してゆき、そしてある日出会うこととなるのだ。【死後の世界】というどちらかというとホラーやサスペンス向け、一歩間違えばスピリチュアルな胡散臭い世界になってしまう題材を、監督:クリント・イーストウッドはけれんに頼ることなく、また【死後の世界】なるもののオカルト要素を多大にクローズアップさせること無く、さらりと美しい人間ドラマとして完成させている。
実際のところ、【死後の世界】なんてありはしない。さらに言ってしまえば霊魂も神も存在しない。人は現象世界にささやかな時間にのみ存在する化学反応でしかない。人が死ぬのは虫や動物や植物や細菌が死ぬのと何一つ変わりない。これらの生命があぶくのように現れては消え去ってゆくように、人の生命もあぶくのように現れては消え去ってゆくだけのものでしかない。人は生命として何も特別ではない。ただ、一つだけ他の生命と違うところがあるのだとすれば、それは人は、観念を持ち、想像することのできる生命だということだ。
そして人は死を想像する、見ず知らずの赤の他人の死を、肉親や友人ら近しい者の死を、そして自分の死を。これを解剖学者の養老孟司氏はそれぞれ『三人称の死』『二人称の死』『一人称の死』と呼ぶ。見ず知らずの赤の他人の死は、『三人称の死』、すなわち、既に死んでおり"死体"という"モノ"となってしまった死のことだ。人は死ぬものだ、という客観的な死だ。『一人称の死』、すなわち自分の死は、これは、経験することの出来ない、つまり認識の不可能な死だ。そして『二人称の死』、肉親や友人ら近しい者の死、どこかで情の通じているものの死は、それと相対する者にとって、決して"モノ"と化したものではなく、"生"の延長線にある、受け入れ難い"何か"の状態になってしまったもののことだ。
人は肉親や友人ら近しい者の死に直面したとき、嘆き悲しみ、語りかけさえする。それは、人にとって、死んだ肉親や友人ら近しい者が、死体ではなく、生きているものだという認識があるからだ。死んだ近しい者たちは、相対するものの観念の中では、まだ生きた姿を持っている。それは、それが想像することができるからだ。即ち、死んだものは、どこかで、生きている。その"どこか"というのは実はそれを想像するものの脳内なのだけれども、物理的に、客観的に、死んでしまった者を生かしているのは、つまりは生きている者だということができるのだ。だから死者を弔い、死者を想うのは、それは生きている自分の為だということができる。【死後の世界】は存在しない。しかし、死者たちが生きる場所は存在する。それは人の心の中なのだ。
ヒアアフター』は【来世】であり【将来】という意味を持っていた。登場人物たちは、死と死者のことを想い、その中から、自らの生のあり方を模索する。死を想う事によって生を想う。オカルトでもスピリチュアルでもなんでもなく、これはそんな物語なのだ。メメント・モリ
(なおこの映画はid:doyさんからお借りした輸入版Blu-rayで視聴しました。311の震災により上映自粛となり、打ち切られた不幸な映画ですが、輸入版でも日本語字幕・吹き替えがついているので、劇場で見逃した方、国内版ソフトが待ちきれない方は輸入版購入もありではないかと思われます)

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メメント・モリ

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