三世代にわたる女たちの運命/『精霊たちの家』イサベル・アジェンデ (ラテンアメリカ文学)

■精霊たちの家/イサベル・アジェンデ

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クラーラは、不思議な予知能力をもっていた。ある日、緑の髪をたなびかせ人魚のように美しい姉のローサが毒殺され、その屍が密かに解剖されるのを目の当たりにし、以来九年間口を閉ざしてしまう。精霊たちが見守る館で始まった一族の物語は、やがて身分違いの恋に引き裂かれるクラーラの娘ブランカ、そして恐怖政治下に生きる孫娘アルバへと引き継がれてゆく。三世代にわたる女たちの運命は、血塗られた歴史で頂点をむかえる。一九七三年チリ、軍事クーデターで暗殺されたアジェンデ大統領の姪が、軍事政権による迫害のもと描き上げたデビュー作。発表されるやまたたくまに世界的評価を得た、幻想と現実を自在に行き交う桁外れの物語。ガルシア=マルケス百年の孤独』と並ぶ、ラテンアメリカ文学の傑作。

I.

ガルシア=マルケスの『百年の孤独』と並び比され、ラテンアメリカ十大小説の一つとも謳われるイザベル・アジャンデの『精霊たちの家』をようやく読んだ。本棚に塩漬けにしたまま10年近く放置していたのだが、これは本当に読んでよかった作品だった。物語を読むっていうのはこういうことなんだよな、と再確認してしまうほど濃厚な読書体験だった。なお冒頭の書影は河出文庫のものだが、オレが読んだのは国書刊行会から出ていたものである。訳者は同じなのでテキストに違いはないと思う。

物語は中南米チリに暮らすある一族の、親子三代に渡る歴史を描いたものである。それは19世紀末に始まり、1973年のチリ・クーデターをピークに迎える1世紀に渡る年代記だ。物語に一貫して登場するのは苦労して財を成し大地主となり後に政界に進出する男エステーバン・トゥエルバ。そして彼の妻であり幽界と通じる不思議な能力を持つ女クラーラ。二人は娘ブランカをもうけ、そしてブランカは農民の息子と禁じられた恋の未にアルバという名の娘を生む。彼ら親子三代が社会と価値観と政治体制の変化の波に飲み込まれながら激動の時代を生きてゆく、というのがこの『精霊たちの家』の物語だ。

II.

まずこの物語を一筋縄にさせていないのはなんといっても一族の長であるエステーバン・トゥエルバの因業に塗れた存在であろう。彼は男性性の権化であり男根そのものが服を着て歩いているような男だ。彼は暴力と性欲と権勢と男性中心・自己中心主義と大時代的で旧弊な価値観で全てを支配し思いのままにしようとする男であり、常に憤怒と憎悪を撒き散らす狂犬じみた男であり、この物語の中で最もいびつで唾棄すべき存在なのだ。しかし彼は単なる狂人ではなく、仕事の面では有能であり一代で財を成し見事な荘園を整え、妻と家族をひたすら愛する男でもある。いうなれば彼は前時代的な男性性の正と負を象徴しカリカチュアした存在であると同時に、いわゆる「ラテンアメリカマチスモ」を代表した存在だということができるのだ。

一方、彼の対極にいるのが彼の妻であるクラーラだ。彼女の存在はどこか非現実的だ。いつも夢見がちでありこの世ではないどこかの世界と繋がっており、精霊の姿を見る事が出来るらしくさらに時折予知能力や念動力を使う。こういった精霊だの超能力だのの描写は実はある種の味付けであり、即ち彼女が精神世界の住人であるということを謳っているのだろう。だから『百年の孤独』と並び比されるとはいえ、マジックリアリズム的側面は希薄と思っていい。現実的なことはまるでダメな彼女だが、そのたおやかさと包容力で家族全ての心の拠り所となっており、誰からも愛され、誰からも賛美されているのだ。こういった部分から彼女を女性性のひとつの象徴と見る事もできる。こんなクラーラがなぜエステーバンのような因業な男と婚姻したのか、というと、それはもう、それが彼女にとっては運命だったから、ということなのだ。

III.

このようにこの物語にはまず「陰と陽」の如く互いに対立する属性を持った二つのキャラクターが登場し象徴性を顕す。それは男性性と女性性であり、現実と非現実であり、実存と架空であり、フィジカルとメタフィジカルであり、不寛容と友愛であり、暴力と慈しみである。しかしこの「陰と陽」は太極図の如く円環の中で一つにまとまり和合している。この物語は対立する「陰と陽」の中から生まれた子供たちが、様々な受難と苦闘の運命を体験しあるいはそれと立ち向かいながら、最終的に完全なる円の如き和合へと辿り着こうとする道行きを描き出そうとしたものなのだ。それは、糾われる縄の如き運命であるということだ。

とはいえ、細かなエピソードを丹念に積み上げながら延々とページを使って物語られるこの三世代に渡る女たちの生の遍歴は、決して退屈ではないにせよ、いったいどこに辿り着きたいのだろうか、と思えないこともなかったのだ。そしてその答えは物語のクライマックスであり全ての運命の集約点ともいえるおぞましい事件、クーデターによる軍部の政権掌握とその後の独裁政権による恐怖政治にあった。

IV.

1973年のチリ・クーデターでは軍部独裁政権による逮捕、拷問、虐殺により数万人にも及ぶという夥しい死者・行方不明者を出し、難民流出は10万人規模であったという。作者であるイサベル・アジェンデはこの時の亡命者であり、さらに彼女の親族にはチリ大統領サルバドール・アジェンデがいたが、彼はクーデターの際に死亡している。イサベル・アジェンデはこれらをモチーフに処女作『精霊たちの家』を書き上げるが、当然軍事政権の恐怖は酸のように彼女の心を苛み続けていただろう。当時のピノチェト軍事政権は国外逃亡した政治家の暗殺まで行っていた政権だからだ。彼女はその体験からクーデターの悲劇を書くことを可能にしたが、しかし書きあがった『精霊たちの家』はクーデターの恐怖のみを描く作品では決してなかった。それは何故なのだろう。

カート・ヴォネガットはその戦争体験を、数十万人もの被害者を出したドレスデン無差別爆撃による恐るべき惨禍を描こうとしながら、書き上げられた作品『スローターハウス5』は奇妙にねじれた時空の旅を描くSF小説として完成した。ジュノ・ディアスは粛清と拷問に満ちた恐怖政治の横行するドミニカ共和国独裁政権を描こうとしながら、書き上げられた作品『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』は非モテのオタク少年が恋と性欲に右往左往する物語の体裁をとっていた。この二人の作家がその核心となる悲劇を直接的に描けなかったのは、それが、あまりにも生々しい痛みに満ちたものだったからなのだという。

V.

翻って、イサベル・アジェンデもまた同様に、軍事政権の恐怖のみの物語を書くことに抵抗があったのではないかとオレには思えるのだ。そして彼女は、恐怖政治によって何もかもが変わってしまった自らの国の歴史を三世代100年近くまで遡り、「そこで我々はどうやって生きていたのか」「そこにはどのような人々がいて、どのように生活し、どのような感情を心の裡に抱いていたのか」から全てを描こうとしたのではないか。そしてそのような様々な歴史と内実を持つ人々が、恐怖政治国家というおぞましい世界で生きたそのことに、どのように心の解決を見出そうとしたのかを描こうとしたのではないか。それは、恐怖政治そのものへの糾弾や批判を描くことではなく、「我々はこうして生きてきた」という生の証を刻み付けようとする行為だったのではないだろうか。

だからこそ、『精霊たちの家』は暴力と不寛容があれほど吹き荒れる世界を描きながらも、あえて幸福な結末を目指そうともがきまわるのだ。完全なる円の如き理想に溢れた和合を完成させるために。かつて自らと共に生きた家族の魂と精霊とが住まう、優しさと喜びと平穏に満ちた懐かしい我が家に再び帰りつくために。そしてそれは、どんなに陰鬱極まりない現実の重圧も、決して魂の自由と軽やかさを奪うことは出来ない、という宣言でもあったのだ。

精霊たちの家 上 (河出文庫)

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精霊たちの家 下 (河出文庫)

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精霊たちの家

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