ガルシア=マルケスの『族長の秋』は独裁者の”百年の孤独”を描く物語だった

族長の秋 / ガブリエル・ガルシア=マルケス (著), 鼓 直 (翻訳)

族長の秋

無人の聖域に土足で踏みこんだ「われわれ」の目に映ったのは、ハゲタカに喰い荒らされた大統領の死体だった。国に何百年も君臨したが、誰も彼の顔すら見たことがなかった。生娘のようになめらかな手とヘルニアの巨大な睾丸を持ち、腹心の将軍を野菜詰めにしてオーブンで焼いて宴会の主菜にし、二千人の子供を船に載せてダイナマイトで爆殺したという独裁者——。政治権力の実相をグロテスクなまでに描いた異形の怪作。

オレはラテンアメリカ文学に一時ハマっていた時期があって、もちろん長編『百年の孤独』をはじめとしたガルシア=マルケス作品も何冊か読んでいたが、もう一つの傑作長編となる『族長の秋』をまだ読んでいなかった。なんだかこれを読んじゃうとオレの中のマルケス作品が打ち止めになってしまいそうで、先延ばしにしていたのである。しかしこの2月28日に新潮文庫新装版が出版されると知り、これもいい機会だからと相方から旧版の集英社文庫を借りて読むことにした。ちなみに2月28日発売の新潮文庫版表紙はタペストリーのような絵柄を使っているが、集英社文庫版は牛のドアップが表紙になったものである。

『族長の秋』はラテンアメリカ文学におけるサブジャンルとまで呼ばれている「独裁者小説」である。「ラテンアメリカ三大独裁者小説」としてはこの『族長の秋』のほかカルペンティエール『方法異説』、ロア=バストス『至高の存在たる余』が挙げられるというが、このほかにもアストゥリアス『大統領閣下』フエンテスの『我らが大地』がそうだし、独裁者の横暴が描写されるといった部分でアジェンデの『精霊たちの家』やジュノ・ディアスの『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』も「独裁者小説」にかすっているかもしれない。こういったサブジャンルが存在するのは、あえて書くまでもなくラテンアメリカ諸国に横溢する血塗られた独裁政治の歴史があるからこそなのだろう。「ラテンアメリカ独裁者小説」は他にも以下のリンクでまとめられている。

さて『族長の秋』となるが、南米の架空の国家を独裁する大統領が主人公となるこの物語は、かの者の悪逆非道な暴政と虐殺、その愛と孤独と死について描くこととなる。しかしそこはマルケス、主人公の暴虐をリアリスティックに描くのでは決してない。俗に”マジックリアリズム”などという呼び名があるように、変幻自在で摩訶不思議極まる情景が、山となり海となり、これでもかこれでもかと、脂マシマシ二郎系ラーメンの如くこってりたっぷり表出することになるのだ。その文章においては非現実的な描写が重層的にモンタージュされ、それは詩的であり儚い幻のようであり、同時に熱病のように忌まわしく、悪夢のような黒い笑いに満ちている。

大統領の極悪さ残虐さは枚挙に暇がない。町中の女たちは誰彼構わず手籠めにされ、裏切者は八つ裂きにされ皮を剝がされワニやブタの餌にされるばかりか料理にまでされ、いかさま宝くじの真相を知る子供たち二千人は船に乗せられて爆殺され、粛清されたテロ犯の生首が毎回何十個も大統領のもとに届けられる。しかしその蛮行への呪いなのか大統領は脱腸を患い金玉が肥大し、愛する母は体中が腐る病に冒され愛した女は陽炎のように消え去り愛した妻と子は犬の群れに食い殺される。信ずることのできる者も愛する者も愛してくれる者もいない官邸で、大統領は年老いた体と肥大した金玉を引き摺りながら亡霊のようにさ迷い歩き、ただ一つの慰めである今はもうここにない愛の記憶を反芻しながら、痛む金玉を摩りつつ一人寂しく眠りにつくのだ。

こうして描かれる大統領の姿から浮かび上がるのは、乳臭いマザーコンプレックスと決して満たされない愛情への飢餓と誰にも心を許すことのできないパラノイアックな狂気である。主人公である大統領は権力への執着や嗜虐の愉しみに酔った独裁者というよりも、機能不全と化した世界で何一つ思い通りにならないことに駄々をこねる幼児の如き存在である。そんな彼はどこまでも果てしなく孤独な男でしかない。それは迷子の子供のような孤独であり人生に倦み疲れた老人のような孤独である。しかし苦悩や悲しみや孤独や絶望といったありとあらゆる人間描写が成されるにも関わらず、この男が一切の同情の余地のないモンスターであることに変わりはない。そのグロテスクさこそがこの物語の真骨頂なのだ。

作中、大統領就任百年記念(!)の宴が賑々しく催される中、主人である大統領はたった一人自分の部屋に引きこもり自らの孤独に打ちひしがれる。彼の人生でただ一つだけ確実なもの、金玉の痛みだけを抱えながら。ガルシア=マルケスの『族長の秋』は、独裁者の”百年の孤独”を描く作品だったのかもしれない。