邪淫の果て〜映画『Ankur』【シャバーナー・アーズミー小特集】

■Ankur (監督:シャーム・ベネガル 1974年インド映画)


南インドの小さな村に、ラクシュミ(シャバーナー・アーズミー)とキシュタヤ(サドゥー・メヘル)という貧しい夫婦が住んでいた。聾唖の夫キシュタヤは陶工カースト(ジャーティ)だったが仕事が無く酒に溺れていた。そんな村に一人の男がやってくる。男の名はスーリヤ(アナント・ナーグ)、地主の息子である彼は、父により大学の研究を辞めさせられ、この土地の管理を任されることになったのだ。
スーリヤには幼い頃婚姻の契りを結ばされたサルという妻がいた。だが彼女は夫と同居することが許される歳にまだ達しておらず、スーリヤはこの土地でその時期を待つことになっていた。ラクシュミとキシュタヤはスーリヤの家で小間使いの仕事を得るが、ある日キシュタヤは失踪してしまう。一人残されたラクシュミとスーリヤの距離は突然接近し、遂に二人は関係を持ってしまう。そのうちにも、スーリヤの妻サルが家にやってくる日が訪れる。その時、ラクシュミは既にスーリヤの子を身籠っていた。
映画『Ankur』はインド南部テランガーナ州出身のシャーム・ベネガルによって監督され1974年に公開された社会派作品である。主演はやはり社会派作品に多く出演しているニューデリー出身の女優シャバーナー・アーズミー。ちなみにこれら社会的リアリズムや批評的な視点に立ったアートフィルムを「パラレルシネマ」と呼ぶのらしい。映画はハイデラバードで撮影されたが、物語自体もこの地で1950年代起こった実話を元にしているという。タイトル「Ankur」は「苗」という意味。この作品は『芽生え』のタイトルで1983年に限定的に日本公開されている。

物語はスーリヤとラクシュミの二人を中心として動いてゆくこととなる。地主の息子スーリヤは強権的な父親により人生の全てのレールを設定され、表向きは大人しく従ってはいるが、どこかで欲求不満を貯め込んでいるようにも見える。そうして育ったスーリヤは金持ちならではの鷹揚さを持つが、性格は付和雷同型の事なかれ主義で何事にも無関心な男として登場する。彼は低カーストのラクシュミの手から食べ物や飲み物を渡されることにまるで頓着しないが、それは進歩的であるというよりは単なるぞんざいさからなのだろう。一方スーリヤの妻サルはラクシュミをあからさまに低カーストとして扱う。
ラクシュミは聾唖の夫との貧困生活にあえいでいた。彼女はまだ年若かったが、貧しさにより持参金が払えず(インドでは嫁の側が夫の側に高額な持参金を払う慣例がある)、キシュタヤのような障碍者と結婚せざるをえなかった。二人の棲む家は藁を積み上げただけの粗末なもので、夫はなけなしの金すらも酒に変えてしまうような男だったが、それでも彼女はつましい暮らしのためけなげな努力を続けていた。二人は子宝に恵まれず、受胎を祈願するさまが冒頭に描かれる。これがまずタイトルの「苗」と被さる。
この二人が、キシュタヤの失踪をきっかけに、遂に体を重ねてしまう。二人の行為に愛はあったのかどうかは分からない。むしろ、お互いの抱える「空虚」を埋め合わせるために、彼らは関係を持ったのかもしれない。スーリヤは父への不満とまだ来ぬ妻にもてあました情欲に、ラクシュミは貧しい生活への不満と夫のいない夜の寂しさのために。その行為の果てにラクシュミは身籠るが、その事実にスーリヤは慌てふためき、対面ばかりを振り回す。そもそもがそういう男だったのだ。そしてこのスーリヤの子がもう一つの「苗」となる。

映画『Ankur』は、こうした、表層的に見るならば一組の男女の姦淫を描いたドラマのように目に映るが、実はその背景に様々なインドの社会問題(インドだけに限らない問題でもあるが)が盛り込まれているのだ。それはアルコール依存症カースト制度、貧富の差、親子の対立、姦通、子供同士の結婚、不誠実な人間関係、宗教の違い、女性側の持参金制度などだ。テーマの盛り込み方に大小の差はあるにせよ、物語の中でこれだけの問題提起がされていることにまず驚かされる。陽光眩しく緑豊かな田園地帯を舞台に、その影で毒虫のように育ってゆく「不信」の「苗」。それが『Ankur』の中心テーマなのだ。
映画としてみるとまず長閑な南インドの光景がまず美しい。この光景からこのような物語が紡ぎ出されるとは最初思わなかったほどだ。そして静かに響き渡るシタールを中心とした音楽がいい。スーリヤを演じるアナント・ナーグは都会的だが甘ったれな青年の姿をしっかりと演じ切り、ラクシュミ演じるシャバーナー・アーズミーは不幸に満ちた人生への怒りを滾らせた冷たい目つき、それと裏腹な若妻のなまめかしい体つきが印象的だった。というかシャバーナー・アーズミー、妙に気になる女優になってしまった。