遂に最終章。〜映画『ホビット 決戦のゆくえ』

ホビット 決戦のゆくえ (監督:ピーター・ジャクソン 2014年ニュージーランド・イギリス・アメリカ映画)


ホビットたちの旅が終わる。しかし、旅の終わりに待っていたのは、欲望に目を曇らせた者たちの骨肉の争いだった。『ロード・オブ・ザ・リング』サーガの前日譚であり、2012年『ホビット 思いがけない冒険』、2013年『ホビット 竜に奪われた王国』に続く「ホビット3部作」の終章である。

物語は冒頭から既にクライマックスを迎える。前作で空に放たれた邪竜スマウグが人間たちの町エスガロスを強襲し、全てを火の海に変えるのだ。町は破壊され灼熱地獄と化す。逃げ惑う人々に生き延びる術はあるのか。それと並行して、ドル・グルドゥアに一人乗り込み死人遣い(サウロン)に囚われの身になったガンダルフ、オーク族の"穢れの王"アゾクの進撃、森のエルフであるレゴラスとタウリエルの活躍が描かれてゆき、そして中盤からは全種族を巻き込んだ【五軍の合戦】(映画原題)へとなだれ込み、それは壮大かつ悲壮な物語として展開してゆくのだ。

【五軍の合戦】とは人間、エルフ、ドワーフと、ドル・グルドゥアの軍勢、グンダバドの軍勢の、強大な力と力がぶつかり合う合戦なのだ。『ホビット 決戦のゆくえ』はこの【五軍の合戦】をハイライトとして凄まじい合戦の有様とその行方を描き、映画のスペクタクルを盛り上げてゆくが、それでは【五軍の合戦】はなぜ起こったのか。それはスマウグから膨大な量の財宝を取り戻したドワーフ族の王トーリンの変節にある。本来人間・エルフと分け合うべきだった財宝をトーリンが一人占めしようとしたのだ。それに対し、人間・エルフが戦闘も辞さぬ形で挑んできたという訳だ。ここに「ホビット物語」の真のテーマがある。

スリリングでスピーディーなアクションが盛り沢山だった1作目と2作目は単純明快な冒険譚だった。それは大人も子供も楽しめるエンターティンメント作品として完成していたが、この第3部に来て物語は突如欲望と猜疑の渦巻く政治劇に発展するのである。崇高な想いを抱き、数々の難関を勇気でもって乗り越え、滅び去った国をようやく取り戻したドワーフ王トーリンが、財宝に目がくらみ欲望と執着で醜くその魂を歪めてしまう。これまで心を躍らせながらドワーフ族と一人のホビットの活躍を見守ってきた観客たちに、これは大きな衝撃となって受け止められるに違いない。

この「財宝に心を歪められる王トーリン」は、LOTRにおける「邪悪な指輪に心を歪められるゴラム」と相似形を成す。しかしゴラムが指輪の魔力による抗えない作用により醜い化け物と化したのに対し、トーリンは「竜の病」という註釈は付くものの、結果的に己の欲望に飲み込まれる形で変節してしまうのだ。そして本来手を取り合い世界を守り築き合うべき種族同士が泥沼の抗争に引き込まれる。ここに「ホビット物語」の遣る瀬無さ、切なさがある。『指輪物語』が児童文学として始まりながら結果的に大人の物語になったように、この『ホビット』も同じく最後に来て大人の苦さを持った物語となるのである。

その中で、あくまでも友情と信頼を第一義とするホビット族、ビルボ・バギンズの身を挺した行動が何よりも胸を打つのだ。葛藤と困惑の中で、彼はそれでもドワーフ王に正しい心を戻してもらうために尽力し、その非力な肉体に鞭打ちながら活躍する様は、無私である者の輝きに満ち、この物語でなぜ彼が主人公なのかをあからさまにするのだ。

それはやはり同時に、LOTRにおいて圧倒的に非力な存在でしかないはずのホビット族フロドが、結果的に世界を救う者として行動したのとよく似ている。非力な者、目立たぬ者、市井の者が最終的に世界を救い、世界を守る。これがトールキンの描く『ホビット』と『指輪物語』に通底するテーマであり、だからこそ、強力な力を持つ者だけが世界を切り開く英雄譚には無い、独特の妙味を持つ物語として世界に愛され続けてきた理由なのだろう。

こうしてトールキン原作の一大ファンタジー・サーガは終わりを迎える。2001年の『ロード・オブ・ザ・リング/旅の仲間』から始まったこの大いなる冒険は遂にその円環を閉じるのだ。原作、映画と長きに渡ってファンだった者として、これは有終の美を飾る最終作として堪能することができた。

http://www.youtube.com/watch?v=w3b0KwHgf_4:movie:W620

ホビットの冒険〈上〉 (岩波少年文庫)

ホビットの冒険〈上〉 (岩波少年文庫)

ホビットの冒険〈下〉 (岩波少年文庫)

ホビットの冒険〈下〉 (岩波少年文庫)