■メランコリア (監督:ラース・フォン・トリアー 2011年デンマーク映画)
I.
地球との衝突が懸念される外宇宙からやって来た惑星メランコリア。この危機的な状況の中にある人々を描いた物語が映画『メランコリア』です。しかしこの作品は宇宙的な規模の破滅を描いたSF作品ではありません。メランコリア=鬱病というタイトルが意味するように、惑星メランコリアは登場人物の鬱的な状態の象徴的な存在です。日常生活と表裏一体となった破滅への不安と恐怖に怯える人々の心象が具現化したものであるということができます。まずなによりスローモーションで描かれる冒頭のイメージの数々が美しい。これは物語全体のあらましを超現実的なシチュエーションで表現したものなのですが、そのままでもアート作品として見る事が出来るような素晴らしいクオリティです。このへんからトリアーの今回の作品への意気込みが伺えるぐらいです。
物語は2章に分かれます。まず主人公ジャスティン(キルスティン・ダンスト)の結婚式と、それがジャスティンの抑鬱状態により破滅的な状況を迎える一部始終が描かれます。幸福の絶頂であるはずのジャスティンはしかし、周囲が期待するお仕着せの幸せが次第に重荷となり、遂に精神的破瓜を起こすのです。彼女の異常な行動は、幸福という名の束縛から自由になりたい、という衝動が起こしたものなのでしょう。2章目はジャスティンの姉クレア(シャルロット・ゲンズブール)と夫、子供を中心に語られます。迫り来るメランコリアと地球との衝突の恐怖に怯えるクレア。彼女には家族との幸福な日常を守らねばならない、という葛藤があります。守らねばならないものがあるからこそ彼女は苦悩します。
II.
守らねばならないものは誰しもある。しかし時としてそのしがらみに人は苦しめられる。その重荷を背負うのを止めることは、自由を得られる行為であるのと同時に現実生活における責任の放棄ともなってしまう。しかし苦しみによりその現実生活さえ継続できないのであれば、人はどうしたらいいのだろう。それを回避するのには価値観を転換させるしかありません。けれども、価値観の転換というのも実は困難な作業であるのです。一方、1章で抑鬱状態からの破滅を引き起こしたジャスティンは、2章では衝突の危機の中を奇妙に達観して生きている。かつての彼女の抑鬱は、周囲からの抑圧から生み出されたものだった。だから結婚の破滅を経験しながらも、その束縛から解放された彼女は、2章からは妙にひょうひょうとしている。
世界なんか終わってしまえばいい、そううそぶくジャスティンの世界は、実は一度終わっている。彼女にとって、メランコリアの地球衝突などは、一度終わってしまった世界の清掃行為でしかありません。ある意味、第1章がジャスティンの惨い現実を描いたものだとすると、第2章はその現実を乗り越えるためのジャスティンの夢想、妄想ととらえてもいいかもしれません。それは彼女が彼女の知るはずの無い数字を知っていた、という描写にも現れます。2部がジャスティンの内的世界を描いたものなのだとするなら、そこは彼女の恣意性が支配する世界なのであり、ならば一見不可能なことも、内的世界であればこそ、それは可能だからなのです。だからこそ、観念的な存在である惑星メランコリアは世界を終わらすために、一度チャラにするために地球にやってくるのです。この1章と2章の対比は、抑鬱とそれを乗り越えたものの達観、という形で存在しています。これはかつて鬱病で苦しんだというトリアー監督の心象が物語られているのでしょう。待ち受ける絶望的な運命に超然とし、諦観さえしていられるのは、トリアーが自らを苛む陰鬱さに対して「腹をくくった」ということなのではないでしょうか。
III.
迫り来る破滅に対してジャスティンは、どこまでも落ち着き払い、怯える姉クレアとその息子レオの為に「魔法のまじない」さえ教えます。そして映画は、陶然となるような凄まじいラストを迎えます。「魔法のまじない」は唐突に語られ、なぜそれをジャスティンが知っているのかは説明されません。それは単なる気休めかもしれませんが、しかし救いというもののある形であることは確かなんです。トリアーは、鬱病という名の昏いトンネルを抜けた終点に、心を平静にさせる"何か"を見出した。陰鬱な現実から身を守り心を平静にさせる"何か" 、即ちその「魔法」とは、トリアーにとって創造する事、物語ることだったのではないか。そして、メランコリア=憂鬱の襲来により一度チャラにした世界の後に、トリアーはもう一度自分の生きられる世界を再生しようとしたのではないか。
あらゆる毒を吐き出しまくり、暴力と死と絶望が全編を覆い尽くす暗黒の問題作『アンチクライスト』は、トリアーにとっての解毒行為であったのでしょう。そしてその創造の後に作られた『メランコリア』には達観したような美と落ち着きがあった。天空を覆う惑星メランコリアの姿を、素裸になって川辺に横たわったまま、うっとりと眺めるジャスティンの姿は、まさに憂鬱の正体と心を裸にして対峙しそれを受け入れたトリアーの姿そのものなのではないでしょうか。自らを苛むものと対峙し乗り越えた後に作られた作品であるこの『メランコリア』の美は、創造という「魔法」によって成し得られたトリアーの新しい境地が詰め込まれていると感じてなりません。トリアー監督作品を数多く見たわけではないけれども、どうも苦手な監督で、その露悪的ともいえるいやらしい物語展開には辟易させられていたのですが、この『メランコリア』はその印象を払拭するような、美しさと確信に満ちた素晴らしい作品でした。ある意味自分にとってトリアー監督のベストと言ってもいいでしょう。