カラー版 世界写真史/飯沢 耕太郎  

美術出版社 ; ISBN:4568400686
写真や写真芸術に対するオレの見解と云ったら、狭量なものでございました。
なーんか偉そうでさ。オレ、権威の匂いがするものは取り合えず係わらないことにしてるんだ。写真において写真家とはヒエラルキーの頂点、絶対的な権力者じゃないですか。権力者は写す欲望=観るということの欲望において絶対的なんじゃないかと思う。そして被写体とは写真家に傅(かしず)く臣民でしかない。写真の持つ権威主義エリート主義はこの辺にあるんじゃないかと思っていた。そして美術館というのはその臣民と権力者の為の神殿であり祭壇であるって云う訳。オレ、こういう図式ってどうも苦手。これは芸術ということではなく写真というメディア一般について思うことだけど、そもそも「観るということの欲望」がどうしてこれほどまでに容易く当たり前のこととして容認されるんだろう。
図版を図版として保存するのって当たり前だが最も即物的な方法論で、写真撮っとけば取り合えず事実として存在する、みたいな物の見方って想像力が欠けているような気がするんだ。実は写真は、現実を撮っているのではなく、写したい(恣意的な)現実の光景の一部分を切り取ってるだけだろ。そなわち写っているものは写した者の主観的な事実でしかない訳だろ。
オレは写真のそういう即物的な機能性が性に合わなくて、写真表現そのものは俗な趣味だと思ってたのよ。でも、ネット漁ってると、本当に面白い写真とか見つけたりして、「偏見を持ったままだと損だから、一回この“写真”という奴と向き合ってみよう」と趣旨変えすることにしたんだ。
例えばファッション・フォトグラフはファッションの意匠と写真表現の両方でアーティスティックなものを目指している写真であるとともに、性と経済に対する直接的な欲望の表出であるという両面を持ち合わせている所がポップ・アートの思想を受け継いでいて面白かったんだ。そもそもファッション・フォトグラフで有名なマン・レイってシュールレアリストだっていうしね。
この本では写真というものの技術的な発明・進歩の過程を追いながら、それに伴い写真表現というものはどのような変遷を経てきたか、が説明されていて、オレのような写真初心者にはいいガイドブックだった。オレが最初に書いた『権力者としての写真家』というジレンマも写真芸術の世界では既に問題提起されていて、「写真家と被写体が限りなく等価であるような写真表現のあり方」という回答も作品として存在しているわけね。そしてまた、そのような批評行為を経て、写真芸術というものは現在へ続いているという。
そんなわけでオレ的には、写真芸術というものが、ブルジョアの慰み物ではないということを知る上で、写真に対する見方の変わった一冊であった。
それとあわせ、図版として収録されている、写真黎明期から写されてきたその時その時の最高の技術で写された写真の数々がとても力強くて美しい。なんというか、写真を撮る、写真の新しい技術を活用する、という熱意とか情熱が伝わってくるんだね。
ちなみにオレ自身は写真を撮る趣味はない。撮られることもないからオレの写真って殆ど存在しない。オレが今死んだらオレの遺影ってどうすんのかなー、ひょっとするとたった一つ存在する免許証の写真が使われるのか?などと思い、免許証と遺影が同じなのもなんとなく嫌だな、とか思ったりして。生前に遺書を残したり墓を立てたりする人はいるけど、それ以前に、「使ってもらいたい遺影」を残しとくって云うのはどうよ?