ファイト・クラブ/ チャック・パラニューク(著)、池田真紀子(訳)
おれを力いっぱい殴ってくれ、とタイラーは言った。事の始まりはぼくの慢性不眠症だ。ちっぽけな仕事と欲しくもない家具の収集に人生を奪われかけていたからだ。ぼくらはファイト・クラブで体を殴り合い、命の痛みを確かめる。タイラーは社会に倦んだ男たちを集め、全米に広がる組織はやがて巨大な騒乱計画へと驀進する――人が生きることの病いを高らかに哄笑し、アメリカ中を熱狂させた二十世紀最強のカルト・ロマンス。
チャック・パラニュークの『ファイト・クラブ』といえばデヴィッド・フィンチャー監督×ブラッド・ピット&エドワード・ノートン主演の映画化でご存じの方も多いだろう。オレもこの映画が大好きで、一時は熱狂的なファンだった。そしてここから多くのチャック・パラニューク作品を読むようになったのだが、『ファイト・クラブ』の原作自体は読んでいなかった。オレはあまり映画の原作を読まないタチなのだ。
とはいえ、前回チャック・パラニュークの初期作品『インヴィジブル・モンスターズ』を読んだときに「そういやまだ読んでいない『ファイト・クラブ』を読んだらパラニュークの翻訳作品を全コンプリートで読んだことになるな」と思い、遂にこの作品を読むことになったというわけである。
物語は説明するまでもないだろう。何不自由ない生活に虚無感を覚える不眠症の主人公が、タイラー・ダ―デンと名乗る謎の男と知り合い、「ファイト・クラブ」と呼ばれるただただ殴り合いをするだけの結社を結成する。「ファイト・クラブ」は多くの男たちを呼び寄せ活況を呈し、そして殴り合う事で「生きることの本質」に目覚めた主人公だったが、しかし秘密結社「ファイト・クラブ」は思わぬ方向へと暴走し始める、といったお話だ。特にタイラー・ダ―デンの正体が判明した後のドライブ感に満ちた目くるめく展開が凄まじい作品だった。
資本主義社会に飼いならされただ安穏と草を食む羊のように生き、そうして生きることの本質を失ってしまった人々だけが暮らす現代社会への痛烈なアンチテーゼ。制御され安定した社会システムの中でブロイラーのように生かされている人間存在に暴力による苦痛を与えることで「己の肉体性」を再認識させること。自らがなにかの構成品や蓄積した情報の堆積物なのではなく確固とした一個の肉体を持つ紛れもない「生命」であること。そしてそれらに「覚醒」し、その肉体性を疎外し続けてきた社会システムに「叛逆」すること。社会に対してあくまでアナーキーであること。
『ファイト・クラブ』はこういった、非常に鮮烈なアレゴリーを豊かなイマジネーションでもって描き切った秀作だ。その文章はひたすらリリカルであり、虚無と混乱と輝きに満ち、時として皮肉で、救済への血みどろの切望が渦巻いている。『ファイト・クラブ』においてパラニュークはその後の作品にみられる錯綜した時間軸を展開に持ち込まず、御家芸の「現実世界の些末な情報」も物語内できちんと消化されたものとして用いられる。物語はテーマが明確であり力強く確信的で、最後まで構成が崩れることがない。そういった意味で、この『ファイト・クラブ』はパラニュークの最高傑作と言っていいだろう。
しかし最後まで読み終えて思ったのは、これをただ単に「生の復権を謳った物語」だと単純に捉えていいのだろうか、ということだった。それは暴走したファイト・クラブが騒乱計画に乗り出し、精神のアナーキズムであったものが現実社会へのアナーキズムへとすり替えられ、社会システムそのものを灰燼に化そうとする展開への奇妙な違和感からだった。エスカレーションした物語のアイロニカルな帰結点だともいえるが、ではそれは何に対するアイロニーなのか。
そのアイロニーとは「男」というものに対するアイロニーなのではないか。「男」が、ファイト・クラブと名付けられた「暴力の殿堂」を経て「男としての肉体性」を獲得した時、その「肉体性」は再び暴力という形へと還元する。モノを作ってそして壊す。実に「男らしい」光景ではないか。
すなわちこの物語は、「男が先鋭化すること=マチズモについての危険性」を炙り出したものだとも言えるのではないか。文明批判であると同時に、返す刀でそもそもその文明を培ってきた「男」そのものを切りつけているのだ。翻って、作者パラニュークはゲイであることを公言しているが、そういった「一つ引いた視点」から見えてくる、容易くマチズモ化する男性性の本質、危険性、そしてアイロニー、それが『ファイト・クラブ』のもう一つの、あるいは隠されたテーマなのではないかと思うのだ。
参考:これまでブログで書いたチャック・パラニューク小説の感想文
※『サバイバー』も読んでるんですが、ブログ開設前に読んだ本なので記事を書いていません。