■Parineeta (監督:プラディープ・サルカール 2005年インド映画)
20世紀中葉のカルカッタ(現コルカタ)を舞台に、二つの家の諍いが相愛である一組の男女に投げかける波紋を描く文芸ドラマである。主演は先ごろ日本でゾンビ映画『インド・オブ・ザ・デッド』の公開されたサイフ・アリー・カーン、ヒロインに『女神は二度微笑む』の日本公開でその美貌と演技の才を知らしめたヴィディヤー・バーラン。彼女はこの作品がデビュー作となる。そしてこの作品の注目点は、SRKも主演した名作インド映画、『Devdas』の原作者シャラッチャンドラ・チョットッパッドヤーイの原作作品を元にしているということだろう。ちなみに「Parineeta」とは既婚女性、といった意味なのらしい。
カルカッタに建つ豪奢な屋敷。そこで一組の男女が諍いを起こしていた。男の名はシェーカル(サイフ・アリー・カーン)。女の名はラリター(ヴィディヤー・バーラン)。屋敷の階段でシェーカルに気易くしなだれかかるラリターを、シェーカルは「この裏切り者、売女!」と怒気露わに叱責する。二人に何があったのか。シェーカルは富豪ナヴィーン・ロイの息子であり、シェーカルは隣家グルチャラン家の養女だった。幼馴染の二人はいつしか相思相愛となり、結婚も間もなくだと思われていた。しかし富豪ナヴィーン・ロイへのグルチャラン家の借金が元で、二つの家の関係は雲行きが怪しくなっていた。そこへ現れたのはロンドン帰りの実業家ギリーシュ(サンジャイ・ダット)。ギリーシュはグルチャラン家の借金を肩代わりすることで、ラリターと急速に接近していった。これによりシェーカルとラリターの仲はこじれ始めるが、そこにはグルチャラン家をよく思わないシェーカルの父の策謀もあったのだ。そしてラリターとギリーシュの結婚が決まってしまう。
以前YouTubeでとあるインド映画解説の様子を視聴したことがあったが、そこでの話が面白かった。インド映画界を日本映画界に見立てた話だったのだが、いわく、ムンバイ(いわゆるボリウッド)で作られる映画は日本でいう東宝映画(娯楽映画)であり、南インドで作られる映画は東映映画(任侠映画)であり、そしてベンガルで作られる映画は松竹映画(文芸映画)である、ということなのだ。確かに、自分が今まで観た中では、ベンガルを舞台にした作品は文芸作が多く、その表現の在り方もシリアスであったりどこか端正だったりするが、なによりもインド映画=明るい、といった世間一般的なイメージを覆す暗く救いのない物語も散見するのだ。だからちょっと展開の暗い映画を観ると「ん?これベンガル?」なんて思うようになってしまったぐらいだ(まあ、オレそんなに多く作品観てないから断言できないけどね…と一応自信無さそうに言っとく)。
カルカッタは西ベンガル州に位置する街であり、そういった意味でもカルカッタを舞台にしたこの『Parineeta』は非常に文学の薫り高い作品だということができる。文学と言っても様々だが、この作品においてはその抑制された美術と話法、細かい心理描写を中心とした物語性、安易なコマーシャリズムや過度なドラマチックさに頼らない作品主義、といったことが挙げられるだろうか。伝統的・古典的な味わい、と表現することもできるだろう。これは同じ文学作品を原作とした『きっと、うまくいく』とはまた違った味わいである、ということなのだ。また、カルカッタならではの雰囲気、文化といったものもあるだろう。豪邸が現れてもそれは金満ではなく旧家の落ち着きを感じさせるし、衣装やライフスタイルのありかたもまた同様だ。そういった中で物語られる物語も、恋愛を中心としながら奥ゆかしく淡白なものを感じさせる。こういった全体を覆う空気感が物語を魅せるものとしている。
ただしこの『Parineeta』はミスリードを促す「ひねり」が物語の中に隠されており、それが物語を分かり難いものにしているだけではなく、物語のそもそもの立脚点をこじつけめいたものにしてしまっているように感じた。それと主人公シェーカルは幼馴染であることにあぐらをかいていたからラリターと反目したとしか思えず、この辺りに古臭い単細胞な男性像を感じた。それに対するラリターのけなげさ、ひたむきさがこの物語の中心となるのだが、これも古典的な女性像だともいえてしまう。そういった部分はあるにせよ、全体的には実に味わい深く美しい作品に仕上がっており、覚えておくべきインド映画の1作であるのは間違いない。また、ラリターを演じるヴィディヤー・バーランの素晴らしさは特筆すべきだろう。
もうひとつ指摘すべきなのは『Devdas』との相関性だろう。『Parineeta』と『Devdas』は相愛の幼馴染同士が二人の家同士の諍いにより引き裂かれてゆく、といった部分でひとつの兄弟のような物語であり、またそれを幻想と眩惑でもって描いた『Devdas』とあくまでトラディショナルに徹して描いた『Parineeta』といった部分ではコインの裏表のような物語であるといえるのだ。もちろん同一原作者であることからだが、そういった部分で見比べるのが面白い作品でもある。