誰がジェシカを殺したのか?〜映画『No One Killed Jessica』【ヴィディヤー・バーラン特集】

■No One Killed Jessica (監督:ラージクマール・グプタ 2011年インド映画)


衆人環視のパーティー会場の中で、一人の女性が射殺された。しかし、誰一人事件を目撃したと言う者は現れなかった。事件の背後にいったい何があったのか?映画『No One Killed Jessica』は、1999年インド・デリーで実際に起こった殺人事件、通称ジェシカ・ラール事件を元に2011年に製作されたセミ・ドキュメントである。殺された女性の姉をヴィディヤー・バーラン、事件を追うTVリポーターをラーニー・ムカルジーという2大女優が演じるのも見所だ。

1999年、デリー。300人ものセレブが集まるパーティー会場で、モデルのジェシカ・ラール(ミーラー)が銃で撃たれ死亡する。バーの手伝いをしていたジェシカは、売り物の酒がもう無い、という理由だけで酔漢に銃弾を撃ち込まれたのだ。撃った男は地元の有力政治家の息子マニーシュ。ジェシカの姉サブリナ(ヴィディヤー・バーラン)と彼女の両親は悲しみの中、逮捕されたマニーシュの裁判の行方を見守っていた。しかし、目撃者であった者たちは買収や保身により次々と証言を翻し、しまいには「誰もジェシカを殺さなかった」という事態に発展、遂に犯人は無罪釈放されることになってしまう。絶望の底に落とされたサブリナだったが、そんな彼女に声を掛ける者がいた。それはTVリポーターでありジャーナリストでもあるミーラー(ラーニー・ムカルジー)だった。正義のための戦いが今始まる。

なにしろまず、ヴィディヤー・バーラン、ラーニー・ムカルジーという主演女優二人が素晴らしい。ヴィディヤー・バーランは心に懊悩と葛藤を秘めた女性を演じさせれば右に出る者がいないかもしれない。この物語でも彼女は終始沈鬱な面持ちで妹の死と一向に進展を見せない裁判という重圧に耐え忍び続ける。映画での彼女は安物の洋服と化粧気のない地味な眼鏡の顔で登場し、インドの町のどこにでもいそうな市井の人を演じ切る。これにより彼女の役柄は特殊な事件に巻き込まれた悲劇のヒロインなのではなく、これが誰の身にも起こり得る悲劇であることを知らしめるのだ。誰の身にも起こり得る悲劇、それは銃による殺傷ということではなく、腐敗した司法構造と事なかれ主義の隣人によって在り得るはずの無い不幸に見舞われてしまう、ということだ。この作品のテーマはまさにそこにあり、ヴィディヤー・バーラン演じるサブリナの、その暗鬱たる表情の中に、観る者は自らが生きる社会の不安を見出さずにいられなくなるのだ。

一方ラーニー・ムカルジー演じるTVリポーター・ミーラーは、これはセミ・ドキュメントであるこの物語において脚色された架空の存在なのだという。ミーラーは事件の話題性をいち早く嗅ぎつける絶妙の嗅覚でジャーナリズムの世界を渡り歩いてきた女として登場する。マッチョでタフ、舌鋒鋭く強固な意志力を持つ彼女は、物語後半において抜群の行動力を見せ、社会と人の心の腐敗に大鉈を振るってゆく。不条理な事件に心を閉ざしたサブリナと全く正反対のキャラクターとして大活躍を見せる彼女は、公正たりたいと願う民衆、つまりは観客の願望的存在として登場するのだ。しかし彼女は決して清廉潔白で無原罪な抽象的人格のキャラクターではない。彼女はそもそもこの事件を知りながら無関心であり、大きな社会問題と化した段階でこの事件に着手した動機の裏にはTVレポーターとしての野心が見え隠れする。だがそれこそが彼女に人間的性格を加味しており、山をも動かす勢いで世論を巻き込んでゆく後半の展開に生々しい迫力をもたらしてゆくのだ。

物語的に見るなら後半からの正義一辺倒に盛り上がり、デモや集会を開いて声をあげてゆく大衆の描写にストレート過ぎるものを覚えるかもしれない。実際のところ、現実の事件もこのような世論の動きがあったからこそ再審請求から民主主義的解決へと繋がっていったのであろうが、一つの娯楽作品の中で見るなら少々イノセントな臭みを感じてしまうのと、一人のTVレポーターに容易く世論操作され過ぎのようにも思えたが、これはこの作品を観た自分個人が心のひねくれた人間だからなのかもしれない。ただ、こういった世論の動きが実際にあり、多くのインド市民の声が上がったという描写を見るにつけ、インドの民主主義や市民感情、そしてその声を吸い上げる行政・司法の在り方も想像以上に健全な側面を持っているな、と感心した。また、作品内ではラケーシュ・オームプラカーシュ・メーラ監督、アーミル・カーン主演で若者たちの革命を描いた 2006年のインド映画作品『Rang De Basanti』の一シーンが使用され、効果を上げている。