一匹の黒猫が主人公となり沈没した世界を冒険するアニメーション映画『Flow』

Flow (監督:ギンツ・ジルバロディス 2024年ラトビア・フランス・ベルギー作品)

洪水に飲み込まれ次第に沈没してゆく世界を舞台に、一匹の黒猫がさまざまな動物たちと出会いながら冒険の旅を続けてゆくというアニメーション映画『Flow』です。ラトビアのクリエイター、ギンツ・ジルバロディス監督が5年の年月をかけて完成させ、第97回アカデミー賞で長編アニメーション賞を受賞したほか、世界各国でも多くの賞を獲得しています。

【STORY】世界が大洪水に包まれ、今にも街が消えようとする中、ある一匹の猫は居場所を後に旅立つ事を決意する。流れて来たボートに乗り合わせた動物たちと、想像を超えた出来事や予期せぬ危機に襲われることに。しかし、彼らの中で少しずつ友情が芽生えはじめ、たくましくなっていく。彼らは運命を変える事が出来るのか?そして、この冒険の果てにあるものとは―?

映画『Flow』公式サイト

洪水により沈んでゆく世界でからくも一艘のボートに乗り込み難を逃れた主人公猫ですが、そのボートにはその後も様々な動物たちが乗り込むことになります。主人公猫の旅の仲間となるのはカピバラ、犬、ワオキツネザルヘビクイワシ。彼らはそれぞれの動物ならではの性格を持ち、暢気だったり(カピバラ)、やたら懐っこかったり(犬)、ワチャワチャと喧しかったり(ワオキツネザル)、気位が高かったり(ヘビクイワシ)と千差万別、一方主人公猫は好奇心が強くなんにでも首を突っ込みます。こういった性格のバラエティが物語を実に生き生きとしたものにしています。そして映画には人間は一切登場しません。

映画に登場する動物たちは決して言葉を話したりはしません。だから映画は最後まで一切の台詞がなく無言で続いてゆきます。映画的な脚色として微妙に人間的な行動をとったりはしますが、あくまで”動物である”ことにこだわっています。ディズニー映画などの動物アニメに見られるような、人間のように会話し行動する擬人化された動物を描いていないといった点において、この作品はひとつ抜きんでた作品となっているんです。そういった部分でも、子供のみならず十分に大人が鑑賞できる作品になっています。

物語の主要な舞台となるのは水に沈みゆく森林、人っ子一人いない住居、奇妙な遺跡、あり得ないような形の山岳です。なぜ洪水が起こったのか、なぜ人間が登場しないのか(既に死滅しているのか逃げ出した後なのか)、そういったことは一切説明されません。そして途中、クジラに似た異形の生物が登場し、この作品は現実世界ではなくファンタジー世界であることが理解できるようになっています。しかしこの世界がなんなのか、そしてどこなのかもやはり説明はされません。

こういった”説明の無さ”が、逆に作品を大いに魅力的にみせています。説明が無いことにより、観ている者の想像力を掻き立てるんです。この世界がどういったもので、今何が起こっているのか、それは観客の解釈に任せられます。また、登場する動物たちはある種の”社会の縮図”のように描かれはしますが、それが暗喩的なものなのか、あるいは単に誇張された動物像であるのかどうかも観る者の判断です。こういった”観る側の自由さ”が、物語に大きな膨らみをもたらしているんです。これはこういった種類の動物アニメでは画期的なのではないでしょうか。

もうひとつ、さまざまな動物たちのその仕草を眺めるのは、どこか”無私になる”部分があります。例えば現実の猫を眺めているのは楽しいし、ほかの動物たちも同様です。動物園に行って楽しいのは、物言わぬ動物たちのその動物ならではの生態を眺めるときに無私になれるからです。それと同様の楽しさ、心の安らぎがこの映画から得られることができます。好奇心豊かな猫が主人公であることにより、物語が様々に展開することができる部分もポイントが高いでしょう。

そんな中、登場する動物たちが次第に協力し合いドラマが生まれてゆく展開はフィクションとしての喜びに満ち溢れていました。なにしろ、主人公猫もいいんですが、その風貌に似合わず大活躍するカピバラが愛おしくてたまりませんでした。次は是非タヌキを主人公にしたアニメを……とは思いましたが、タヌキが主人公だとずっとホゲッとしてるんだろうなあ……まあそこがいいところなんだが。


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ジュリアン・バーンズの『終わりの感覚』を読んだ

終わりの感覚 /ジュリアン・バーンズ (著), 土屋 政雄 (翻訳)

歴史とは、不完全な記憶と文書の不備から生まれる確信である――。二十代で自殺した親友の日記が、老年を迎えた男の手に突然託される。それは、別れた恋人の母親の遺言だった。男は二十代の記憶を懸命に探りつつ、かつての恋人を探しあてるが……。記憶の嘘が存在にゆすぶりをかけるさまをスリリングに描くバーンズの新境地。

ジュリアン・バーンズというとポストモダン作家という印象があるのだが、この『終わりの感覚』は非常にストレートな筆致で描かれた文学長編である。その物語は、学生時代に自殺した友人が残した日記が発見され、老境にある主人公の人生に大きな波紋を投げかけるといったものだ。

主人公の名はトニー。物語はトニーの学生時代から始まる。トニーの学友の一人にエイドリアンという名の青年がいたが、ある日トニーの恋人ベロニカがエイドリアンに鞍替えしてしまうのだ。だがその後エイドリアンは謎の自殺を遂げる。それから数十年後、離婚歴を持つ中年男性となったトニーのもとに手紙が届く。それはベロニカの死去した母親が、トニーに対しエイドリアンの日記を遺贈する意思のあったことを告げるものだった。なぜ数十年も経ってからエイドリアンの日記がトニーに贈られるのか?そしてそれがなぜベロニカの母からのものなのか?トニーは真実を知ろうとベロニカに連絡を取ろうとするが、ベロニカは頑として会おうとしない。それはいったいなぜなのか?

こうして、一つの死を巡り、その死の真相と、その真相が数十年を経た後でなければ明かされなかった理由が、錯綜した物語となって描かれてゆく。そのテーマとなるものは、若かりし頃に犯してしまった過ちは、決して一生拭いきれないものなのか?ということだ。学生時代のトニーは自らのもとを去ったベロニカと、その原因となったエイドリアンに小さな復讐心を抱いたが、それは老境となったトニーにとっては、既に大昔の、忘れ去ってしまうような出来事だった。その”忘れ去ってしまうような出来事”が今トニーを糾弾し彼の心を苛むのだ。

そしてこれは”曖昧な記憶”についての物語でもある。”忘れ去ってしまうような出来事”は、本当に忘れ去られていたのか?忘れたのではなく、それは都合よく記憶を改竄していたのではないか?そうして何事もなかったかのように自己保身を遂げていたのではないのか?こうして、自らの過去を再び掘り下げ始めたトニーは、それらが青年期の時と老年期の今とではまるで解釈が違ってくることに思い至る。記憶とは主観的なものであり、それはどうとでも自分に都合よく解釈できる。そして本当の事実に突き当たったトニーは、衝撃的な真実を知ることになる。

バーンズがその小説においてテーマとするものの一つに「記憶の不確かさ」がある。それは「歴史記述の(恣意的な)曖昧さ」という形となって『フロベールの鸚鵡』『10 1/2章で書かれた世界の歴史』に現れ、『イングランドイングランド』では冒頭から主人公の「記憶の不確かさ」が記述される。この『終わりの感覚』でも、ある一節で「歴史とは、不完全な記憶が文書の不備と出会うところに生まれる確信である」と記され、物語では「記憶の不確かさ」が主人公を苦しめることになる。

このテーマは何を言い表そうとしているのか。記憶とはどこまでも主観的なものであり、決して客観的な現実を映し出すものではない。そして己の記憶が信用できないものである以上、その記憶を根幹として成り立つ己の現実もまた信用できないということであり、そんな不安定さの上にかろうじて立っている人間存在そのものの危うさを提示しようとしているのではないか。

自分の身に引き寄せてみるならば、自分自身の若かりし頃に、語るのを憚るような浅ましい行動をとったことがないとは言えない。法を犯すような類のものではないが、人を傷つけたり、欺いたり、人として正しくないような事柄だ。それを老年となった今、どう思うべきかと問われるなら、それはもはやどうしようもないとしか言いようがない。懺悔し続けなければならないのか、許しを請い続けなければならないのか。しかしそれはもう、もはや遅きに逸したこととして自分を納得させるしかないではないか。それこそが欺瞞であろうとも、都合よく編纂された記憶であろうとも。ジュリアン・バーンズの『終わりの感覚』は、そんな、自分の心の深い部分に、小さな棘のような痛痒感を残した作品だった。

 

”法が裁かない悪人”を私刑にする連続殺人事件を追え / 映画『ベテラン 凶悪犯罪捜査班』

ベテラン 凶悪犯罪捜査班 (監督:リュ・スンワン 2024年韓国映画

”法が裁かない悪人”を私刑にする連続殺人事件が発生、煽情的な動画配信者がこれを「正義のヒーロー」と持ち上げ、多くの者が賛同して世論が騒然となってしまう。我らが熱血ベテラン刑事ソ・ドチョルと凶悪犯罪捜査班はこの困難な捜査を遂行できるのか?というクライムアクション映画。2015年に公開された映画『ベテラン』のシリーズ第2作だ。主人公ソ・ドチョルに韓国の国民的スター、ファン・ジョンミン。監督は『密輸 1970』『モガディシュ 脱出までの14日間』のリュ・スンワンが前作に引き続きメガホンをとる。

【STORY】法では裁かれない悪人を標的にした連続殺人事件が発生。不条理な司法制度に不満を抱えていた世論は、犯人のことを善と悪を裁く伝説の生き物「ヘチ」と呼び、正義のヒーローとしてもてはやすようになる。熱血ベテラン刑事ソ・ドチョルと凶悪犯罪捜査班、さらにドチョルに心酔する新人刑事パク・ソヌも捜査に加わり、事件は解決に近づくかに見えた。しかし犯人は刑事たちをあざ笑うかのように、次の標的を名指しする予告をインターネット上に公開する。

ベテラン 凶悪犯罪捜査班 : 作品情報・キャスト・あらすじ・動画 - 映画.com

粗筋だけだとシリアスな物語という印象を受けるだろうが、実はこの『ベテラン』、ドタバタしたコメディシーンも相当加味されたシリーズで、第2作となる本作においても、冒頭からとんでもないギャグシーンが連打され大いに笑わせてくれるのだ。このシリーズの最大の魅力となるのは主人公ソ・ドチョルの、暴走し過ぎていつも周囲に迷惑をかけまくる熱血ぶりと、そのソ・ドチョルをサポートする捜査班の、気の置けない人間関係、そしていざという時に大いに発揮する無鉄砲なまでの機動力にある。それは今作でも健在で、前作に引き続き大いに物語を盛り上げるのだ。

今作のテーマとなるのは「犯罪者を私刑に処すのは是か非か」という問題、そしてそれがSNSで拡散されることで、世論が間違った正義感へと傾いてしまうという問題だ。これは非常に現実的で現代的な問題であり、優れたシナリオだと感じた。「法が裁かない悪人を私刑にする者」という存在もフィクションでは昔から散々描かれてきたが、この『ベテラン 凶悪犯罪捜査班』ではその”制裁者”が”悪人”を残虐な方法で殺し、最初から異常殺人者の扱いだ。この部分で”正義”の在り方にブレがなく、エンタメ作品としてすっきりしている。

さらに後半、犯人が被害者を選別させる行為に出るシーンや被害者に残虐なトラップを仕掛けるシーンでは、バットマン映画『ダークナイト』や『ザ・バットマン』を大いに彷彿させた。これらリアル路線を追求したバットマン映画は、ヒーローの私刑についても意識的であり問題意識を抱えていたが、それがこの『ベテラン 凶悪犯罪捜査班』にリンクするとは思ってもみず少々驚いた。そして今作が同工の作品と一味違うのは、”犯人”となる者が早くから正体がはっきりしていて、しかも思わぬ存在であるという部分だろう。で、こいつがまた凄まじい体技を繰り出し、アクション面においても大いに見せる作品となっていた。

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息子と声を失った男の血塗られた復讐が始まる/映画『サイレントナイト』

サイレントナイト (監督:ジョン・ウー 2022年アメリカ映画)

『サイレントナイト』は愛する息子を殺され、自らも声を失った男が、復讐を誓って立ち上がる!というリベンジアクション映画だ。なんといっても『男たちの挽歌』シリーズ、『フェイス/オフ』のジョン・ウー監督が久々にハリウッド作品を撮ったという部分が注目だろう。主演は『スーサイド・スクワッド』シリーズのジョエル・キナマンジョエル・キナマンは結構お気に入りの俳優で、リメイク版『ロボコップ』も悪くないが、NetflixのTVドラマ『オルタード・カーボン』が特にいい。

【STORY】家族とともに幸せな日々を過ごしていた男は、クリスマスイブの日にギャング同士の銃撃戦に巻き込まれ、愛する息子の命を目の前で奪われてしまう。自らも重傷を負った彼は、どうにか一命を取り留めたものの声帯を損傷。絶望を叫ぶ声さえも失った男の悲しみは、いつしか激しい憎しみへと変わっていく。悪党たちへの復讐を決意した男は、次の12月24日をギャング壊滅の日に定め、過酷な戦いへと身を投じていく。

サイレントナイト : 作品情報・キャスト・あらすじ・動画 - 映画.com

愛する者を殺された平凡な男が、血を吐くような鍛錬の末に復讐に打って出る、というストーリーだけなら、あまりにありふれていて興味が湧かないだろう。しかしこの作品が決して陳腐な作品に堕していないのは、その独特な設定にある。それは主人公の男が、悪漢の襲撃により声帯に傷を受け、喋ることができなくなっている、という点だ。それにより、映画は全編に渡ってほとんど台詞無しのまま展開してゆくのだ。物語はクリスマスイブを中心にして動いてゆくが、クリスマスの「サイレントナイト」と声を失った男の「サイレント」がかけてあるタイトルという訳なのだ。

ほとんど台詞のない物語であることにより、主人公が心情吐露してみせたり何かを説明してみせたりといったことが全くない。あったとしても主人公の仕草や表情がそれを現していることになるのだが、それは視覚情報として提示されることであり、言葉によって何かを言い表したり規定することがない。それにより、アクションだけで全てを見せてゆき、アクションだけで全てを進行させてゆくという、おそろしくストイックかつ没入感の高い作品になっているのである。余計な説明の無さは乾いた情緒を生み、それはハードボイルド的と言っていいだろう。

余計な説明のない物語で描かれるのは、徹底的な銃撃と殺戮の宴だ。クリスマスイブの夜、遂に男の復讐が始まると、映画はただひたすら延々と暴力に次ぐ暴力を画面に叩きつけてゆく。声のない男の復讐は孤独と狂気に満ち、言葉にならない悲しみと怒りが全編を覆いつくす。映画はどこまでも冷たくダークであり、耳を聾するインダストリアルサウンドが響き渡り、夜の闇はあまりにも邪悪で、世界には何一つ救いなどないと思わせる。そしてそこに突如、ジョン・ウー監督ならではの、なけなしの詩情が沸き上がるのだ。これにはとことん痺れさせられた。映画『サイレントナイト』は、どこかフリークスな匂いのするカルト的な作品として記憶に残るだろう。

怒らせたヤツはヘタレCIA職員だったッ!?/映画『アマチュア』

マチュア (監督:ジェームズ・ホーズ 2025年アメリカ映画)

愛する妻をテロ犯に殺され復讐を誓ったCIA職員のチャーリーだったが、CIAはCIAでも彼は情報捜査官、殺しのスキルなど全く持たない”アマチュア”だった……という映画『アマチュア』である。主人公チャーリーに『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』『ボヘミアン・ラプソディ』のラミ・マレック、訓練教官ヘンダーソン役に『マトリックス』のローレンス・フィッシュバーン。監督はドラマ『窓際のスパイ』、映画『ONE LIFE 奇跡が繋いだ6000の命』のジェームズ・ホーズ。原作はスパイ小説作家ロバート・リテルの同名小説。

【STORY】内気な性格で愛妻家のチャーリー・ヘラーは、CIA本部でサイバー捜査官として働いているが、暗殺の経験もないデスクワーカーだ。最愛の妻とともに平穏な日々を過ごしていたが、ある日、無差別テロ事件で妻を失ったことで、彼の人生は様変わりする。テロリストへの復讐を決意したチャーリーは、特殊任務の訓練を受けるが、教官であるヘンダーソンに「お前に人は殺せない」と諭されてしまう。組織の協力も得られない中、チャーリーは彼ならではの方法でテロリストたちを追い詰めていくが、事件の裏には驚くべき陰謀が潜んでいた。

アマチュア : 作品情報・キャスト・あらすじ - 映画.com

『96時間』や『イコライザー』、『ジョン・ウィック』や『ビーキーパー』など、「怒らせたヤツは殺しのプロだった!」といった映画が花盛りである。オレもこのジャンルの映画が相当に好きなのだが、あまりに無双過ぎて飽きてしまう、という方もちらほらおられるようだ。そんな昨今の流行りの中で変化球として登場したのがこの作品だ。この『アマチュア』、「怒らせたヤツはCIA職員だった!」のではあるが、実のところ主人公チャーリーは一日中端末に張り付いているだけの情報分析職員であり、銃もまともに撃てないヘタレ野郎だったのである。そんなチャーリーがどのように復讐を遂行するのか?がこの映画の見どころの一つとなるのだ。

とはいえ、リベンジムービーやら無双映画やらにはやはり食傷している方も多いかと思う。しかしこの『アマチュア』は、単なるリベンジムービーで終わっていない部分に真の面白さがあるのだ。主人公チャーリーは職務中にある極秘ファイルを発見するが、それはCIA上層部が隠ぺいしたある汚れた作戦の内容だったのである。それによりチャーリーは自分の務めるCIAから命を狙われることになる。「追う者と追われ者」を描いた作品は多々あるが、この『アマチュア』の主人公チャーリーは「追う者であると同時に追われる者」となってしまうのだ。これにより映画はチャーリーがテロ犯に近づけば近づくほど、CIAに発見されるリスクが高まってしまうという構造を成すことになり、緊張感がさらに倍加される効果が出ているのだ。

こういった点で、映画は単なるリベンジムービーに止まらない、熾烈な諜報戦の応酬が描かれるユニークなスパイスリラーとして完成している。それはあたかも「アクション少なめのジェイソンボーン」といった様相を呈し、誰一人信用できないパラノイアックな恐怖が全編を覆う作品となっているのだ。構成は恐ろしくしっかりがっちりと作られており、妻を失った悲しみもウェットさに流れることなく丁寧に描かれ、様々な部分で過不足ない目くばせが成された快作だと言っていいだろう。それを後押ししているのは主演であるラミ・マレックのマッチョさを否定した佇まいと、何を考えているのか分からないギョロ目のキャラクターに追う部分が大きいだろう。