たった一人の暴動 / 映画『スリー・ビルボード』

スリー・ビルボード (監督:マーティン・マクドナー 2017年アメリカ映画)

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そこはミズーリ州の田舎町エビング。車も滅多に通らないうら寂びれた街道に立つ3つの看板に、ある日新しいメッセージ広告が掲示される。そこにある文言は「レイプされて殺された」「犯人逮捕はまだ?」「なぜ? ウィロビー署長」。広告を出したのは7ヶ月前娘をレイプされ焼殺された母親ミルドレッド。一向に進展しない捜査に業を煮やしての行動だった。そしてその日から、町を大きな波乱が蔽い始める。

映画『スリー・ビルボード』を観た。一人の母親が、娘を惨たらしい死に追いやったレイプ犯を一刻も早く逮捕して欲しい、という切羽詰まった願いをアピールしたにもかかわらず、事態があらぬ方向へとあらぬ方向へと崩れ出してゆく、というどこまでも寒々しい物語がここでは描かれる。嘆願された筈の警察はただ面目を保つことだけに腐心し、住民たちの一部は必死の思いの母親を白々しい目で見、あるいは罵倒する。

確かにミルドレッドはあまりに"やりすぎる"女だ。常に挑発的で攻撃的で、場合によっては反社会的な行動に出ることも厭わない。彼女は決して悲嘆に暮れる母親ではない。それはもはや悲嘆に浸っている場合などではないからだ。彼女は怒っている。猛烈に怒っている。娘の理不尽な死に、娘を死に追いやったゲス野郎に、そしてそのゲス野郎を捕まえられない警察に、そんな彼女にも事件にも無関心な人々に。彼女は怒っている、そしてどうにかしなければならないと思っている、だから彼女はなりふり構ってなど居られないのだ。

なりふり構ってなど居られないから、ミルドレッドの行動は次第に暴走し逸脱し、それに併せ物語は乱調し、思わぬ方向へと事態は変転してゆく。だがしかしだ。怒れる彼女は、同時にあまりに無力でしかないのだ。成す術がなく、成される術もない。出口は無く、解決策も無く、そして望みさえも薄い。だから、彼女はメッセージ広告という形でしか、声を形にすることができなかったのだ。

それは、それをする事で事態が解決するとかしないとか、良くなるとか悪くなるとか、そういうことの為ですらない。ただ、ここで足を止めてしまえば、自分というものが無くなってしまう、圧殺されてしまう、そういった恐怖に曝られた者の、怒りと絶望のないまぜになった絶叫が、あの広告だったのだ。『スリー・ビルボード』の3つの看板に書かれた言葉の真のメッセージ、それは「ふざけんな!」「ふざけんな!」「ふざけんな!」だったのに違いない。そしてその後の彼女の行動は、たった一人の暴動とすら言えるような凄惨なものと化してゆくのだ。

映画『スリー・ビルボード』の面白さは、主人公ミルドレッドの、一人の人間の中で多層的に現れるキャラクターの複雑さとそのアンビバレンツの在り方にあるだろう。彼女は被害者であり加害者であり、正義を説きながら反社会的であり、同情にたえないと思わせながら同情の余地のない行動に出る。ミルドレッド以外の主要登場人物もまた多層的なキャラを成しており、ウィロビー署長は最初事なかれ主義の怠慢警官と思わせながら実は癌で余命幾ばくもない懊悩を抱えており、暴力警官ディクソンすらガサツな母親の庇護から逃れ出られない哀れな男だ。

複雑さを抱えたこれら登場人物たちが織り成すそのドラマは、善vs悪だの犯罪者vs被害者だの権力vs一般市民だのといった凡庸な二元論的物語であることを回避し、より奥深く洞察力に満ちた”人間存在そのものの在り方”、さらに”人間社会の孕む無明さ”に肉薄した物語について完成している。そしてこのような物語として完成した一因として、主演を演じたフランシス・マクドーマンドウディ・ハレルソンサム・ロックウェルらの説得力ある演技がそこにあったことは決して忘れてはいけないだろう。また、個人的にはTVドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』のティリオン・ラニスター役ピーター・ディンクレイジが出演していることが嬉しかった。既にして今年上半期最も忘れられない映画の1本に出会えた気がした。


『スリー・ビルボード』日本版 新予告編