未来省 / キム・スタンリー・ロビンソン(著)、瀬尾具実子 (訳)
2025年、インドを未曾有の大熱波が襲い、2000万人の犠牲者を出す。 喫緊の課題である気候変動に取り組むため国連に組織された、通称「未来省」のトップに就任したメアリー・マーフィー。 つぎつぎと起こる地球温暖化の深刻な事態に対し、地球工学(ジオエンジニアリング)、自然環境対策、デジタル通貨、経済政策、政治交渉……ありとあらゆる技術、政策を総動員。人類の存亡をかけ果敢に立ち向かっていく。 〈火星三部作〉のキム・スタンリー・ロビンスンが描く、現代から2050年代までの気候危機をめぐる近未来SF小説。
温暖化が危機的状況を迎えた近未来の地球
地球温暖化の原因とされているCO2の排出削減が世界的に叫ばれているが、この『未来省』は温暖化が危機的状況を迎えた近未来の地球で、どのようにCO2削減を徹底化し世界を破滅から救えるのか?を描いたSF作品となっている。作者は数世代に渡る火星テラフォーミングを克明に描いた名作『レッド・マーズ』『グリーン・マーズ』『ブルー・マーズ』の3作からなる〈火星三部作〉を描いたキム・スタンリー・ロビンソン。
物語は冒頭から地獄絵図を描き出す。2025年、地球温暖化は最悪の時を迎え、殺人的な熱波によりインドで2000万人以上の犠牲者を出してしまうのだ。これ以上手をこまねいているわけにはいかないと各国は協調姿勢を取り、スイス・チューリッヒに地球環境改善を推し進める国連機関「未来省」を設立する。代表はアイルランド人女性メアリー・マーフィー。彼女はあらゆる手腕を尽くして強権的な指導と改革を行い、世界それ自体の産業と金融を根底から作り変えてゆく。そしてCO2排出の禁止措置のみならず、ジオエンジニアリングにより現在大気に存在するCO2すらも低減させようとしていた。
物語はこうしたマーフィーの尽力の様とその身辺の出来事を描くだけでなく、北極や南極で行われるジオエンジニアリングの情景、さらに格差と貧困に困窮する世界の様々な人々の生活実態を点描し、時には地球環境が一人称で語りかけて来るなどといった描写まで登場する。ドキュメンタリータッチで進んでゆくその物語は「地球上からどのようにCO2を削減し、その為に産業・経済・政治活動を含む社会構造をどのように変革しなければならないのか」を、〈火星三部作〉でも見せた広範かつ該博な知識、現実的かつ驚異的なアイディアで描き切るのだ。
〈火星三部作〉と『未来省』
さてこの『未来省』、ざっくり言うなら地球環境変革についての物語だが、これは実は〈火星三部作〉と綺麗な相似形を成している。〈火星三部作〉が火星環境の「改造」を描いたものだとしたら、『未来省』は地球環境の「改善」を描こうとしたものであることだ。そしてそれら「改造/改善」にまつわるあらゆる思惑が時に暴力的な敵対行動となって噴出するといった部分においても同一である。こうして見ると作者はそもそもエコロジカルなテーマをSF作品として提出することに強い関心を持つ作家だということなのだろう。
というわけでこの物語、「地球環境を守れ!」という作者の強烈な願いと決意に満ちた、非常に今日的な問題提起を孕む作品として生み出され、バラク・オバマ元アメリカ大統領やMicrosoft共同創業者ビル・ゲイツからも絶賛を受けたということなのだが、こと「SF小説」として読もうとすると、ええとそのう、あんまり面白くない。現実問題と密着しすぎてフィクションとして楽しむ類のものでは決してないというのもあるが、そもそも描かれるドラマそれ自体が、ええとあのう、退屈なのだ。
『未来省』と『ノストラダムスの大予言』
オレはこの物語を読んでいて舛田利雄監督による1974年の日本映画『ノストラダムスの大予言』を思い出してしまった。映画『ノストラダムスの大予言』は1999年に起こるとされる世界滅亡へと連なる大災害の様子が特撮でもってこれでもかと描かれ、最後に丹波哲郎演じる日本の首相が「こんなんじゃ世界は滅亡しちゃうから自然破壊を止めよう!」とかなんとかもっともらしい演説を垂れて終わるという映画である。しかし映画の本体は鬼面人を驚かすド派手でグロテスクなカタストロフの様であり、地球環境を守ろうとかどうとかいうのは別に真摯なメッセージではなく、物語というのはとりあえずオチを付けなければ終わらないのでその方便なのである。要するにエンタメに特化した見せ物映画であり、『未来省』とは真逆の思想で制作されているが、下世話な面白みがあった。
翻ってこの『未来省』は地球温暖化による人類滅亡を未然に防ぐために本気に大真面目に書かれているお話であり、「鬼面人を驚かすカタストロフ」の描写は殆ど冒頭のみで、あとはCO2削減のためにどのようなアプローチが可能なのかを徹底的に追及してゆくのだ。それは非常に高邁な思想と精神に基づくものであり、『未来省』で描かれたそれら方策はCO2削減のためのひとつのありうべきシミュレーションとして周到に思案されたものだということができるが、結局はそれはシミュレーション小説なのであって、ひとつの法螺話としてのSF小説として突き抜けてくれるものでは決してないのだ。
SFなのかシミュレーション小説なのか?
「別にSF小説じゃないからなんだってんだ?」と思われるかもしれないが、この物語では執筆当時に可能なテクノロジーのみに拘ったせいなのか、CO2削減に有用と考えられる実現可能なテクノロジーが全く描かれないことに非常に疑問を感じてしまったのだ。それは例えば常温核融合炉や水素駆動エンジンへの言及が全くないということだ。これらは原書が刊行された2020年の時点であっても将来的に実現可能な研究中のテクノロジーであったはずだし、仮にもSF作家なら知らないわけがないだろうが、それをあえて外す部分に作為を感じてしまう。というかこの二つを登場させるとお話が10ページ足らずでメデタシメデタシと終わってしまうのだ。
代わりに登場するクリーンエネルギーによる代替発電としてはソーラーパネルがゴニョゴニョっと書かれているだけで他は具体的に描かれてない(というか読み飛ばしてしまったか?)。ソーラーパネルを始めとするクリーンエネルギー運用には現在でも様々な疑問が投げかけられてるが、物語内でそれに対する現実的な返答がない、という部分にもやはり作為を感じてしまうのだ。あと原発をどうするのかもきちんと書かれない。これが法螺話が基調となるSF作品なら目も瞑るだろうが、あくまで本気に大真面目にシミュレーションしたいというならそれを避けて通ってしまうのにはどうにも納得がいかないのだ。
そういった部分で、CO2排出削減のための広範なアイディアとしてはよく書かれているとは思うのだが、あくまでフィクション、そしてSF小説として読むなら退屈なものであった、というのがオレの正直な感想である。ただし、本書を読み多少なりとも地球温暖化やカーボンフリーに関する知見を得られ、自分でも考えたり調べたりという事が出来たので、そういった部分で作者の訴えはある意味成功したとも言える。